7 立ち直り準備中
クリスマス一週間前のある日、ケンジはお気に入りのレストラン「サム」に座っていた。
彼はいつもここに来るたび、ふと彼女が現れるのではないかと期待してしまう。
ドアの真鍮のノブを握るたびに、そんな予感に心がときめく。
しかし、彼女が現れることはなかった。
いつものように数人の客が壁に掛けられた絵のそばのテーブルに座り、カウンターの向こうには、いかつい顔のマスターが一人で立っているだけだった。
ケンジは、この場所に来るたびに、なぜこんなにも切ない気持ちになるのかと自問した。
彼女の笑い声が、忙しい日々の隙間を縫って彼の心に忍び込んでくる。
彼はその声に導かれるように、再び「サム」のドアを開ける。
店内でマスターの女性に関する失敗談を聞くと、ケンジは不思議と心が軽くなる。
恋人が去ってしまった後は、その思い出を笑い話に変えるしかない。
笑っている間は、何も考えなくて済むからだ。
「お前みたいな男を、ウジ虫っていうんだよ」とマスターは言った。彼は茹でたパスタをボールでかき混ぜながら、ケンジの側までやってきた。
「まったく情けない。俺なら、すぐに他の女を探すね」とマスターは続けた。
「そう言うマスターも、奥さんに逃げられたままじゃないか。新しい人を見つけたらどうだい?」とケンジが返すと、マスターの顔が一瞬強張った。しかし、彼は怒ることはなかった。
サム・R・フックスは苦笑いを浮かべた。彼はケンジをただの純朴な若者だと思っていたが、実は意外としっかりしていると思い始めた。
「お前の名前はケンジ・オカムラだったな」とマスターは言った。
「何だよ、急に改まって。マスター、怒ったのかい?」とケンジが尋ねる。
「怒ってないさ。ただ、お前は面白い青年だと思っている。今、大学の何年生だい?」とマスターが聞いた。
「四年生だけど」とケンジが答える。
「本当に、この春に卒業できるのかい?」とマスターが続けた。
「この春、卒業するよ。俺がそんなに頭が悪そうに見えるかい?奥さんの話をすると、マスターはいつもそんなに意地悪くなるのかい?」とケンジが言った。
サムは再び苦笑いを浮かべ、「俺のことはどうでもいいだろう」と言った。
「だったら、俺のことだってどうでもいいじゃないか」とケンジが返した。
「女にフラれた男は、みんなそう言うんだ。不思議なものだ」とサムが言った。
独身貴族のリプリー警部補も、オットー所長に同じことを言っていた。そういえば、昨日の死体の件はどうなったんだろう。
「俺はフラれたんじゃないって、マスターは言っていたじゃないか」とケンジが言った。
「あの時は、お前が不幸そうに見えたからだよ」とサムが答えた。
「今は不幸そうに見えないのかい?」とケンジが尋ねる。
「タフはやつだと感心している」
「まだ少し心が痛いんだけど」
「全然、そうは思えない」とサムが答えた。
ケンジは会話を打ち切り、店を出ることにした。彼には仕事が待っていた。
「仕事って、何をやっているんだ?」とサムが尋ねた。
「アルバイトで、自然科学研究所の助手をしているんだ」とケンジが答えた。
「自然科学研究所?もしかしてK4地区の白い建物かい?」とサムが尋ねた。
ケンジは頷いた。
「俺はあの研究所が何をやっているのか、一晩中考えたことがある。教えてくれ、あそこで何をやっているんだ」とサムが言った。
「食品衛生ないし公衆衛生の調査、それに実験用の試験サンプルの準備とかだよ。あと、偽造フィギュアの製造の下請けもやっている」とケンジが答えた。
マスターは、カウンターの上を横切る七面鳥を見るような顔でケンジの話を聞いた。そして首を振りながら、彼は嘆息した。
「偽造フィギュアの製造だって?」とサムが言った。「フィギュアは元々偽造だろ?」
「その偽造物をさらに偽造して別のものにしちゃうんだ」
「???」
「つまり犬をパンダに作り替えたり、さ」
「犬をパンダに。何でまた、そんなこと…組織から遺伝子を抽出してクローンを作るとか」
「えっ、いや。あくまでも人形だよ。本物をそんなこと出来るわけないでしょ」
「あっ、人形の話ね。でも需要があるのかい。どこで売ってんの」
「ダイゾーとかゼリアとかに卸すお人形だってさ」
「何でまた、そんなもの…」
「ワタクシのバイト代を捻出するんだって」
「あんまり景気良くないんだ?研究所」
「まったくね。あっ、お客さんみたいだよ。僕はそろそろ行くよ」
レストランのドアが開き、家族連れの3人が中に入ってきた。
ケンジはカウンターを離れ、ドアに向かって歩き出した。
「ますます眠れなくなるよ。ハドリバーグ自然科学研究所の実体は一体何なんだ」とサムがつぶやいた。
「それが俺にもよくわからないんだ」とケンジが答え、舌を出して外に出て行った。
つづく
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