夕暮れ時に研究所を訪ねたが、誰もいなかった。

ケンジはいつものように、自転車を玄関脇に置くと、スペアキーで玄関の戸を開けた。

玄関から研究室の廊下を見渡したけれど、奥の壁までひっそりと静まっていた。

中は真っ暗だった。やっぱり誰もいない。

サンプルが置いてあるラボ(研究室)を覗いてみた。

何もなかった。サンプルの包装も片付いている。たぶん分析は終わったのだろう。

それにしても、ケンジがいつも感心することは部屋の中がきれいに片づいていることである。

本棚は整然としているし、机に書籍が山積みになっているのを見たことがない。

さすがに、埃や手垢にまで手が回らないようだが、それはケンジにも気にならない。

 

オットー所長は二年前に妻を亡くした。

彼女の運転するワゴン車が、崖から転落してしまったとか聞いていた。

オットー自身はめったに運転などしない人間だった。

山中で調査をしていたオットーを、奥さんが迎えにいく途中の事故だった。

警察の説明では、事件性はなくブレーキ操作の遅れが事故の原因らしかった。

オットーはそれ以来、この研究所で自炊し、身辺の雑事のすべてを自分でこなしている。

愛する人を亡くした時、彼は周囲の人間から再婚を勧められた。

だが、その当時もそれ以降も、彼は頑なに再婚を拒んだ。

プラトニックな感情というよりも、きっと色々なことが面倒臭かったのだろう。

オットーは、ずっと一人で生きる決心をしているらしい。

 

ケンジはラボを出て、事務室を覗いた。

四つの事務机が並べられていて、卓上にはFAX付きの電話が一台備えてあるだけだった。

ケンジは研究所の助手として一年近く働いたが、この事務室に事務員らしき人間を見かけたことがない。

雇う金がないとか言っていたことがある。

埃をかぶったFAXの排紙トレイに、物凄い筆圧でもって書かれた感じのメモが着信していた。

リプリー警部補が所長に宛てたものだった。

「午前中に来たが、いませんでした。電語、下さい」

メモは、角張った迫力のある字で書かれていた。


お粗末な文章。「電語」というのは、たぶん電話のことだろう。

ケンジはメモの端に書かれた番号に、電話してみた。

きっかり一回のコールで、落ち着いた感じの女性の声が聞こえてきた。

リプリーの部屋に女性がいるはずはないので、これは警察署内の番号だ。

リプリーを呼び出すと、聞き慣れたダミ声が遠くで聞こえ「何だ、どうした、電話か、誰だ」と怒鳴りながら、受話器に接近してきた。

「なんだ、お前か」

おっかねえやつ。

「オットー所長は帰ってきたか」

リプリーという男は、こちらの用件も聞いてくれない。

ケンジは少しムッとした。

「帰っていないんでしょうね。研究所には誰もいませんでしたよ。ところで、うちの所長の出張先を御存じないでしょうか」

「はあ、出張なさった所は、何というか、その、ええと」

ダミ声は明らかにうろたえている。権威・権力の世界から服従者の世界へようこそ。

「チェインバーグだ。他に何か聞きたいか」

ちえっ、言葉足らずな警察官め。

「何をするために?」

「そんなことは知らん」

「この前の死体の件はどうなったんですか」

「お前には関係ないことだ」

電話は爆撃の余韻を残して、切れた。

チェインバーグは、州北部のへんぴな田舎町だった。

珍しく研究所の車庫には白のワゴン車がなかった。

ウインドベルからチェインバーグまで自動車で、三時間以上かかる。

もう夜が近いし、今日は帰ってこないだろう、とケンジは思った。 

 

つづく

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