第9話 デフはメタルがお好き?
「マスター、エミリーは何を聴いているんだい?」
バーカウンターで居眠りしていたケンジは、奥の部屋から響いてくる騒音で目を覚ました。
マスターは向かいのシンクで何かを作っていた。
「ヴァン・ヘイレン、ガンズ&ローゼス、メタリカ。古いヘビメタだな」
燻製用の肉を太い糸で縛りながら、サムは答えた。
まったく、どんな娘さんだろう。
「ごく普通の女の子さ。あれでも成績はいいんだぜ」
父親はそう言うが、ケンジはヘビメタ狂の娘なんて、お目にかかりたいとは思わなかった。
奥の部屋から流れてくる音楽は、次第に凶暴さを増していった。
準備中のレストランは、やかましくて頭痛がしそうだった。
二人の忍耐力が限界に達しかけた頃、音楽は突然やんだ。
止まらなければ、気が狂っていたかもしれない。
「店舗併用住宅のデメリットだな。一応、営業時間はヘビメタ禁止ってことにしてるんだが」
「でも、あんなに大きな音で聴くことないだろう、マスター」
「実はな、ケンジ。エミリーは難聴なんだ」
「えっ?」
「ドラムやベースの音は聴き取りやすいらしい。リズムがはっきりした曲を選んでいったら、ヘビメタに落ち着いたんだとさ」
カウンターの向こうのドアが開き、エミリーが姿を見せた。
「まあ、仲良くしてやってくれ」
サムが小声で言った。
騒音にげんなりしていたケンジは、初めて彼女を見た。
ざっくりとしたオレンジのニットに、デニムのパンツ。
どことなくボーイッシュな格好だった。
少し垂れ目の女の子で、高校生くらいだろう。
難聴だって言ってたな。
ケンジが会釈すると、エミリーも少し微笑んだ。
とにかくエミリーとは仲良くしなきゃ、とケンジは思った。
大学は冬期休暇に入った。
相変わらず研究所は閉ざされている。
オットー所長は、リプリーが持ち込んだ仕事でチェインバーグへ出張したままだった。
ケンジは、所長の帰りを待つ日々を過ごしていた。
年明けの一週間ほど前、ケンジの口座にいくらかの金が振り込まれた。
旅先のオットーが、銀行から給料を振り込んでくれたらしい。
ある晴れた朝。
ケンジは卒業論文を書きかけのまま放り出し、ベッドで眠っていた。
去年の暮れ、両親から独立してアパートで一人暮らしを始めた。
自炊も初めてなら、家事もろくにしたことがない。
その結果が、今の部屋だった。
シンクには、洗えばいいだけの食器が山積みになっている。
酔っ払って足で蹴飛ばして閉めたため、完全には閉まらなくなった冷蔵庫のドア。
半年前に母親がやってきて洗ったきりのベッドシーツには、何やら凄まじい芸術性を帯びたシミが広がっていた。
「まるでブタ小屋ね」
ベッドで口を開けたまま眠っているケンジを見て、エミリーは呆然としていた。
白いソックスは、部屋を十歩も歩かないうちに足の裏が黒くなった。
スリッパもない。
モップもない。
スチール製の円筒形のゴミ箱には、ゴミがぎっしりと詰め込まれていた。
たぶん何度も足で踏みつけて、圧縮してあるのだろう。
エミリーはため息をつき、重いゴミ箱をキッチンへ運ぼうと持ち上げた。
その瞬間だった。
五匹の、テカテカした羽根を持つチャバネゴキブリがぞろぞろと這い出してきた。
そのうち何匹かが、ゴミ箱からエミリーの腕へ乗り移った。
断末魔の叫び声が響いた。
「何だよ、エミリー。来ちゃったのか」
ケンジがようやく起き出した。
「どうしてこんなに汚いの、あんたの部屋は!」
「汚いと落ち着くんだ」
「冗談じゃないわよ。ゴミ箱の中にゴキブリを飼ってるなんて最低よ!」
「それじゃ、どこで飼えばいいんだ?」
「ええい、黙れ! あたしはニワトリとかゴキブリみたいに、普段飛ばない生き物に飛ばれるのが何よりも嫌なの!」
「意外性を嫌うわけだね」
ケンジは欠伸をした。
「それで、今日は何しに来たの?」
「あんたに電話よ。所長さんから店に電話がかかってきたの。どうして直接、あんたのスマホにかけなかったのかしら」
「もう長いことドゴモに金を払ってないんで」
「……そう」
「所長は何か言ってた?」
「チェインバーグにいるらしくて、三十分後にもう一度電話するって言ってたそうよ」
「何だって?」
「三十分後にもう一度、お店に電話するって」
「三十分後かぁ」
「十五分経過したわ」
「それを早く言え!」
