「マスター、エミリーは何を聴いているんだい?」

ケンジはバーカウンターで居眠りしていたが、奥の部屋の騒音で目が覚めた。

マスターは向かいのシンクで何かを作っていた。

「ヴァン・ヘイレン、ガンズ&ローゼス、メタリカ。古いヘビメタだな」

燻製用の肉を太い糸で縛りながら、サムは答えた。

まったく、どんな娘さんだろう。

「ごく普通の女の子さ。あれでも成績は良いんだぜ」

父親はそう言ったが、ケンジはヘビメタ狂の娘なんて、お目にかかりたいとは思わなかった。

奥の部屋から流れる音楽は次第に凶暴さを増し、準備中のレストランの中は、やかましくて頭痛がしそうだった。二人の忍耐力の限界まで達した時、音は急にやんだ。

やまなければ、気が狂ってしまっただろう。

「店舗併用住宅のデメリットだな。一応、営業時間はヘビメタ禁止ってことにしてるんだが」

「でも、あんなに大きな音で聴くことはないだろう、マスター」

「実はな、ケンジ。エミリーは難聴(デフ)なんだ」

「えっ?」

「ドラムやベースの音は聴き取りやすいらしい。リズム体がはっきり聴こえる曲を選んでいった結果、ヘビメタに落ち着いたって言っていた」

カウンターの向こうのドアが開き、エミリーが姿を見せた。

「まぁ、仲良くしてやってくれ」

サムはケンジに小声で言った。

騒音にげんなりとしたケンジは、初めて彼女を見た。

ざっくりとしたオレンジのニットに、デニムのパンツ。何となくボーイッシュな格好。

少し垂れ目の女の子だった。高校生くらいだろう。

難聴だって言ってたな。

ケンジが会釈すると、向こうは少し微笑んだ。

とにかくエミリーとは仲良くしなきゃ、とケンジは思った。

 

大学が冬期休暇に入った。

相変わらず研究所は閉ざされている。

オットー所長は、リプリーの持ち込んだ仕事で出張していた。

ケンジは、オットーの帰りを待つ日々が続いた。

年明けの一週間前に、ケンジの口座に、いくらかの金が振り込まれていた。

オットーは旅先から、銀行に給与を振り込んでくれたいた。

 

ある晴れた朝、ケンジは卒業論文を書きかけのまま放り出して、ベッドで寝ていた。

去年の暮れ、両親から自立して、アパートで一人暮らしを始めた。

自炊なんて初めての経験だった。

洗えばいいのに、シンクは汚れ物で山積みになっていた。


汚れた大量の食器。

酔っ払って足で蹴飛ばして閉めたために、完全には閉じなくなってしまった冷蔵庫の凹んだドア。

半年前に母親がやってきて洗ったきりで、何やら凄じい芸術性を帯びつつあるシミのついたベッドシーツ。

「まるでブタ小屋ね」

ベッドで口を開けたまま眠っているケンジを見て、エミリーは呆然としていた。

彼女の白いソックスは、ケンジの部屋を十歩も歩かないうちに足裏が黒ずんできた。

スリッパもないし、モップもない。スチールでできた円筒形のチリ籠には、ギッシリとゴミが詰まっている。

たぶん何度も足で踏んづけて、圧縮してあるに違いなかった。

エミリーはため息をつき、重いチリ籠をキッチンまで運ぼうと取り上げた。

すると、五匹のテカテカした羽根を持つチャバネゴキブリがゾロゾロと這い出てきて、チリ籠から彼女の腕に乗り移った。

断末魔の叫び声。

「何だよ、エミリー。来ちゃったのか」

ケンジは起き出した。

「どうしてこんなに汚いの、あんたの部屋は」

「汚いと落ち着くんだ」

「冗談じゃないわよ。ゴミ箱の中にゴキブリを飼っているなんて、最低よ」

「それじゃ、どこで飼えばいいんだ?」

「ええい、黙れ。あたしはニワトリとかゴキブリみたいに、普段飛ばない生き物に飛ばれるのが何よりも嫌なの」

「意外性を嫌うわけだね。今日は何しに来たの?」

「あんたに電話よ。所長さんから店に電話がかかってきたの。どうして直接、あんたのスマホにかけなかったのかしら」

「もう長いことドゴモに金を払っていないんで。所長は何か言っていたかい」

「チェインバーグにいるらしくて、三十分後にもう一度電話をするって言ってたそうよ」

「何だって?」

「三十分後にもう一度、お店に電話をするって」

「三十分後かぁ」

「十五分経過したわ」

「それを早く言え」

 

つづく

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