16
リプリーと別れた後、ケンジはオットーの病室にいた。
オットーはあれから、処置室で点滴を受けているらしい。
ケンジは備付けの折り畳み椅子に座り待ち続けていた。
オットー所長は、衣類が全然足りないようだった。
ケンジが持参した着替えを数に入れても、明日にはもう着替えがないのだ。
研究所所長の肩書きを持つ人間が、パンツの残り数を気にしながら療養するというのも可哀想だとケンジは思った。
オットーのスウェットスーツは、ある看護婦が調達したものだという。
オットーは診察室からまだ戻ってこなかった。
ケンジは一旦ウインドベルへ引き返すことも考えた。
所長の着替えを取りに帰る必要があるからだ。
「オットーの着ていたスウェットスーツなんだけど」
ケンジは部屋を訪れた若い看護婦を捕まえて、尋ねた。
看護婦は右手にしびんを持って、面倒くさそうに言った。
「あれはタチカワ婦長が持ってきたんです」
「じゃあ、じきに返さなきゃいけないんだね」
「さあ、私には分かりません」
ごく当然の事を訊いたつもりだったが、なぜか素っ気ない返事。
「分かりませんって、これは婦長さんのものだろ」
「ええ、婦長が買ってきたらしいんです」
「スウェットの代金はどうなっているんだい?」
「さあ、事務の方で計算しているんじゃないですか」
とっつきにくいのか、何も知らないのか、よく分からない看護婦だ。
ケンジは辟易した。
看護婦は右手に持ったものを処理しようと、急いで廊下を走っていった。
しびんを手にして丁寧に対応するのは、難度の高い技術なのかのしれない。
何かに蹴つまずくかもしれないし、こぼしたらモップでゴシゴシ拭き足らなきゃならないだろうし。
ケンジは少し申しわけなさを感じた。
ケンジは病室を出て、受付でチェインバーグのパルチノン社の食品加工セクションの場所を尋ねた。
受付の女性は、生真面目な口調で回答してくれた。
スウェットスーツのことは何にも聞いていないと言う。
彼女は彼女でこちらの事情に興味があるらしく、リプリー警部補が何を調べにきたのか、ケンジから聞き出そうとしてきた。
「見舞いじゃないかな。親類なんだよ、オットー氏の」
彼女は少し首を傾げた。期待したほどのスキャンダル性が無かったらしい。
「リハビリ室では、何か大声をあげられたそうではないですか」
彼女は眼鏡のツルを指で摘み上げ、窓口のカウンターから顔を近づけ、小声で訊いた。
あまり近寄りたくない顔。
ようするに、病院内の風評には常に耳をそばだてているというわけか。
こんなのにまともに答える必要はない。
「あの人は昆虫が嫌いなんだ。特にハエが飛んでいると、神経質になって、怒り出すんだよ」
「確かにハエがどうしたとか、おっしゃったそうですが」
「人間にはそれぞれな苦手なものがあるんだ」
ケンジは受付の女性に軽く会釈をして、その場を離れた。
彼の頭の中には、オットーのことがぐるぐると回っていた。
オットーが戻ってくるまでに、何かできることはないかと考えながら、病院の廊下を歩いていた。
さっきの看護師が病室の前に立っていた。
「オットーさんの件でドクターがお話ししたいそうです。お時間はありますか?」
「もちろんです。どこで会うんですか?」
「病院のカフェテリアでお待ちになっています」
「分かりました。すぐに向かいます。」
ケンジはカフェテリアに足早に歩いた。
何か重要な展開がありそうだ。
カフェテリアに到着すると、若いドクターがすでに席について待っていた。彼はケンジに手を振り、隣の席を指さした。
「ケンジさんですか、こちらへお掛けください。オットーさんの件で少し話をしたいんです」
ケンジはテーブルに着き、医師の話に耳を傾けた。
「オットー氏の病状について、いくつか気になる点があります。あの方の症状は単なる疲労やストレスによるものではないかもしれません」
「どういうことですか?」
「オットー氏の血液検査の結果を見ましたが、いくつかの異常値が出ている。特に、彼の体内に未知の化学物質が検出されました」
「未知の化学物質?」
「そうです。まだ詳しい分析は進行中ですが、これはただの病気ではない可能性があります」
ケンジは驚きと不安を感じながら、ドクターの言葉を反芻した。オットーの病状が単なる疲労やストレスではなく、何かもっと深刻な問題である可能性が浮上してきたのだ。
「ドクター、どうすればいいんでしょうか?」
「まずは、オットー氏の事故現場で何が起きていたのかを詳しく調べる必要があります。彼が最近接触した人物や、訪れた場所についても洗い出す必要があります」
「感染症ですか?」
「いや、まだ何とも。あなたは研究所にお勤めでしょう?あなたの血液の調べたいんですが、御同意いだだけませんか?」
「いいですよ。今すぐですか」
「今すぐです。私と一緒に処置室に行きましょう」
ケンジは頷き、ドクターの指示に従うことにした。
たぶん僕はシロだろう…ケンジは思った。
そもそも、最近ではずっとパンダのフィギュアを作っいただけで、研究らしい研究にも立ち会っていない。
それにオットーとは、今日を除いてもう何日も接触がない。
だが医師の判断に役立つなら、僅か10㏄の血液ぐらいくれてやっても、全く依存はない。
とにかく早くオットーと話をしなきゃな…ケンジはそう思った。
つづく
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