第38話 ネクロバズ
大バエは、すでにチェインバーグ市街まで入り込んでいた。
商店街はすべてシャッターを下ろしている。
普段なら買い物客で賑わう繁華街を、リプリーは一人で歩いていた。
時折、路上に大バエの死骸が転がっていた。
警察や機動隊に撃ち殺されたものだろう。
いつの間にか、マスメディアはこの巨大なハエを「ネクロバズ」と呼ぶようになっていた。
誰が最初に名づけたのか、リプリーは知らない。
知りたいとも思わなかった。
ネクロバズの死骸は路上で縮み始め、褐色の体液を流しながら、ひどい悪臭を放っていた。
機動隊も出動していたが、手に負える状況ではなかった。
一匹を撃ち落としている間に、別の場所で三匹が現れる。
山火事の消火活動を終えたばかりの自衛隊に、チェインバーグ市は再び出動を要請していた。
リプリーはアーケードを見上げた。
二匹のネクロバズが、天井近くを飛び回っている。
戯れているようにも見えた。
「楽しそうだな、この野郎」
リプリーはホルスターから拳銃を抜いた。
一匹に狙いを定め、引き金を引いた。
銃声が無人の商店街に響き渡った。
命中した。
ネクロバズは空中でもがき、アーケードの切れ目から路上へ落下した。
鈍い音がした。
褐色の粘液がアスファルトに飛び散る。
もう一匹は羽音を響かせながら、どこかへ飛び去った。
リプリーは死骸を一瞥しただけで歩き出した。
今はハエ退治をしている場合ではない。
アーケードを抜け、路地裏へ入った。
薄汚れた二階建てのアパートが見えてきた。
一階左側のドアを叩く。
返事はない。
もう一度叩いた。
やはり返事はなかった。
ドアノブを回してみると、鍵は掛かっていなかった。
「不用心な奴だ」
リプリーは中へ入った。
入ってすぐに小さなキッチンがあり、その奥が居間になっていた。
ベッドには紺色のブルゾンとジーンズが無造作に脱ぎ捨てられている。
スマートフォンの充電ケーブルがコンセントから伸び、ベッドの上で絡まっていた。
人の気配はない。
荒らされた様子もなかった。
リプリーはしばらく部屋を見回した後、外へ出た。
右隣の部屋をノックする。
しばらくして、頭にカーラーを巻きつけた中年の女性が顔を出した。
「ハーバート・ベインズさんのことで訊きたいんだが」
「あら、ハーバート?」
リプリーは頷いた。
「今朝、帰ってきていたみたいだけど、また出ていったわよ。SNSを見ると、まだオンラインになってるみたいだけど」
「今朝?」
「ええ」
「ハーバートは夜勤をするのか?」
女は少し考えた。
「違うわ。昼間働いているはずよ。何かあったの?」
「いや、別に」
「でも今朝、大きな外車に乗って出ていったわよ」
リプリーの表情が変わった。
「外車?」
「黒い車。見たことのない車だったから怪しいと思って、ナンバーを撮っておいたの」
「撮った?」
「ええ」
女は少し得意そうだった。
「ハーバート、警察に捕まったの?」
「その写真、見せてもらえるか」
女はスマートフォンを取り出した。
何度か画面を操作して、一枚の写真を表示した。
黒塗りの大型車。
ナンバープレートも読める。
リプリーは自分のスマートフォンを取り出し、その画像を受け取った。
すぐにカシワラへ送った。
簡単な状況説明も添える。
数秒後、着信音が鳴った。
「リプリーか。写真は受け取った」
聞き慣れた、少したどたどしい声だった。
「ハーバートが今朝、この車で連れていかれたらしい」
「本人の意思じゃないのか?」
「部屋はそのままだ。服も充電ケーブルも放りっぱなし。夜中に山へ行って、朝帰ってきた直後に、知らない車で出ていった。どうにも臭う」
「パルチノンか」
「たぶんな」
リプリーは路地から空を見上げた。
遠くでネクロバズの羽音が聞こえている。
「防犯カメラを当たれないか」
「俺はもう警察官じゃないぞ」
「知ってる」
「知ってて頼むのか」
「ああ」
電話の向こうで、カシワラがため息をついた。
「できる範囲で当たってみる」
「それでいい。車の動きが分かれば十分だ」
「国定公園の監視員の報告も気になるな」
「いつ入った?」
「昨日だ。山火事とハエ騒ぎがなければ、そのまま握り潰されていただろう」
リプリーは舌打ちした。
「ハーバート・ベインズの人事記録も必要だ。勤務記録もな」
「令状なしでか?」
「だから、俺も今から動く」
「どこへ行く?」
「工業団地のM地区だ」
リプリーは電話を切った。
アパートを出ると、アーケードの有料駐車場まで走った。
途中、遠くで銃声が聞こえた。
続いて、何か巨大なものが屋根に落ちる音がした。
振り返らなかった。
青いスバルに乗り込み、エンジンをかける。
「今度は人間の番だ」
リプリーは呟いた。
スバルは駐車場を飛び出し、パルチノン食品加工第五セクションのあるM地区へ向かった。
翌日。
パルチノン食品加工第五セクションに捜査令状が執行された。
そして一月二十日。
ハーバート・ベインズの遺体が、チェインバーグ郊外の山中で発見された。
同じ日の午後。
ネクロバズに左腕を食いちぎられ、病院へ搬送されていた少年が死亡した。
五歳だった。
