第39話 再生の春
春がやってきた。
チェインバーグの商店街では、閉ざされていたシャッターが一つ、また一つと開き始めていた。
ネクロバズの襲来から三ヶ月。
街のあちこちには、まだ事件の傷跡が残っている。
修理されていない屋根。
割れたまま板で塞がれた窓。
道路には新しく舗装された場所がいくつもあった。
それでも、人々は戻ってきていた。
店を開ける者がいる。
買い物に出る者がいる。
学校へ向かう子供たちがいる。
それだけのことが、三ヶ月前には考えられなかった。
パルチノン食品加工第五セクションは、完全に操業を停止していた。
捜査によって、過去のウインドベルでの薬害事件からチェインバーグでの廃棄物処理まで、長年隠されてきた事実が次々と明らかになった。
ネクロバズの異常成長についても、パルチノンが廃棄した化学物質との関連が認められた。
国定公園の山火事については、社員だったハーバート・ベインズが大バエを処分するために火を放ったことが判明した。
そのハーバートも、山中で遺体となって発見された。
彼が自分の意思で山を焼いたのか。
誰かに命令されたのか。
そして、なぜ殺されなければならなかったのか。
その答えも、少しずつ明らかになりつつあった。
リプリーはウインドベル署の自分の机に座って、事件資料を眺めていた。
机の上には、パルチノン関係の書類が山積みになっている。
読みたくなかった。
できれば全部、窓から捨てたかった。
だが、それをやれば署長に殺される。
リプリーはタバコをくわえた。
火をつけようとしたところで、事務職員が睨んでいることに気づいた。
「何だ」
「禁煙」
「知ってる」
「だったら、くわえないでよ」
「火はつけてない」
「屁理屈ばっかり」
リプリーは舌打ちして、タバコをポケットへ戻した。
その時、スマートフォンが鳴った。
カシワラだった。
「どうした」
「ハーバート・ベインズの件だ」
リプリーは椅子に座り直した。
「何か出たか」
「一人、身柄を押さえた。パルチノンの関係者だ。ハーバートを連れ出した車にも関係している」
「喋ったのか」
「これからだ」
「じゃあ、良い知らせでも何でもねえじゃないか」
電話の向こうでカシワラが笑った。
「相変わらずだな、お前は」
「三ヶ月くらいで人間が変わるか」
「変わらんだろうな」
「じゃあ切るぞ」
「リプリー」
「何だ」
「少しは休め」
「余計なお世話だ」
電話を切った。
リプリーは窓の外を見た。
春の日差しが、署の駐車場を照らしている。
三ヶ月前。
この街では、人間ほどもあるハエが空を飛び、人を食っていた。
今では駐車場の隅で、本物の小さなハエが一匹、ゴミ箱の周囲を飛んでいる。
リプリーはしばらくそれを見ていた。
「お前はそのままでいろよ」
誰にも聞こえない声で呟いた。
チェインバーグでは、ネクロバズによって命を落とした人々の追悼式が行われた。
五歳の少年も、その犠牲者の一人だった。
少年の両親は、息子の死を無駄にしないでほしいと訴えた。
事件をきっかけに、チェインバーグでは工業地区の環境調査が始まった。
パルチノンだけではなかった。
長い間、見て見ぬふりをされていた問題が、次々と表へ出てきた。
街がきれいになったわけではない。
人間が急に善良になったわけでもない。
ただ、以前より少しだけ、見ようとする人間が増えた。
ウインドベル自然科学研究所にも変化があった。
市から新しい環境調査の仕事が入るようになった。
ケンジは正式に研究所で働き始めていた。
もっとも、本人が思い描いていた「科学者」の生活とは、ずいぶん違っていた。
「ケンジ、コーヒー」
「自分で入れてください」
「所長命令だ」
「そんな命令があるんですか」
「今作った」
ケンジは呆れてオットーを見た。
オットーはスヌーピーのカップを持っていた。
あの看護師から電話がかかってくる回数も、以前より増えている。
研究所の備品にも、少しずつスヌーピーが増殖していた。
ケンジはネクロバズより、こちらの増殖の方が止めにくいのではないかと思っていた。
「所長」
「何だ」
「春ですね」
オットーは窓の外を見た。
研究所の庭に、小さな若葉が出ている。
「そうだな」
「今年は平和だといいですね」
オットーはしばらく黙っていた。
「そういうことを言うと、何か起きるぞ」
「やめてくださいよ」
その時、電話が鳴った。
オットーが受話器を取る。
「ああ、タチカワさん」
声が急に柔らかくなった。
ケンジは嫌な予感がした。
ネクロバズ事件は終わった。
しかしケンジにとって、本当に理解しがたい事件は、これから始まるのかもしれなかった。
