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ウインドベル自然科学研究所で、所長の結婚式が行われようとしていた。
空は晴れ渡っている。
雲ひとつない。
おまけに研究所の庭には、満開のチェリー・ブラッサム。
K4地区の人々の嬉々とした笑顔。
経費節約のつもりで教会の結婚式は諦めたのに、K4地区の教会は、鐘を鳴らしてくれている。
オットー博士は地域の名士であるらしい。
ケンジは庭に集まった人々を、二階の窓から眺めていた。
「せめてネクタイの色を変えたら、どうだ」
「どんな色にすればいいんです?」
リプリーは窓辺のケンジを見て、腹立たしく注文をつけた。
その血膿色のネクタイは、今日はよせ。銀行の営業マンを連想させる。
リプリー元警部補は昇格し、今日は警部らしい格好をしていた。
黒の上下に、ヒラヒラの飾りがついたホワイトシャツ。何度もワックスをかけて艶を出した、ワニ皮のいやらしい
靴、まがいもののローレックス。
「これを使え」
と、オットーはロッカーから幅の広い黄色のネクタイをケンジに投げた。
金ボタンのブレザー、ネズミ色のスラックス、牛皮の靴に黄色いネクタイを合わせると、まるでコメディアンのようだ。
「何ですか、これは。元のネクタイを返してください」
ケンジが怒ると、オットーはネクタイを返し、尾の長いタキシードを着て二階を下りていった。
リプリーは「花嫁が下で待っている」と言い残し、オットーの後を追った。
「ケンジ、いつまでここにいるの」
気がつくと、エミリーが二階へ来ていた。
「エミリー」
ケンジはネクタイを結び直しながら側へ行った。彼女は白いドレスを着ていた。
「すぐ行くさ。アレンは?」
「庭にいるわ。パパとママも来ているの」
「そうかい」
ケンジはエミリーの手を取って、部屋を出て行こうとした。
エミリーがその手を引いた。
「どうした、エミリー」
「仕事が決まったのね、ケンジ」
ケンジは恥ずかしそうに頷いた。
「あまり高待遇とは言えそうもないんだけどね」
「どうしてここへ就職する気になったの」
「オットー所長を尊敬しているからさ。ここで働けたら、どんなにいいだろうと思っていた」
ケンジはエミリーの顔を見た。非難している様子はなかった。
「ずっと前から、そう思っていたんだ。君と出会う前からね」
「仕事は大丈夫なの。専門が違うんでしょ」
「大丈夫さ。事務員だから、専門の仕事は少し手伝うだけだよ」
「そう、良かったわ。でも警察ごっこは、もうやめてね」
「そんなことしないよ」
ケンジは慌てて言った。エミリーは微笑んだ。
二人は窓辺まで引き返し、庭に集まった人々を眺めた。
桜の木の下にアレンがいた。
見知らぬ少年と一緒だった。たぶん彼氏だろう。
門の近くにサムとリンダが話をしていた。
「良かったね。お母さんが戻ってきて」
ケンジはエミリーに言った。エミリーは顔をしかめた。
「あれ、良くなかったのかい」
「ううん、良かったことは良かったんだけど、見てられないのよ」
「何を」
「オアツイところ」
「ねえ、うまくいっていなかったっていうけど、具体的なきっかけがあって別居したんだろ」
「そうよ」
「どういうきっかけなんだい」
「サムが、いやパパが、ママにお小遣いをあげなかったかららしいの。ちょっと買い物し過ぎちゃって」
「…で?」
「よそで働くってことになっちゃって…」
ケンジは苦笑した。別荘地の娘アレンらしいきっかけだ。
彼は言った。
「でも不思議だね」
「何が?」
エミリーは尋ねた。
「目の前の相手が不満で、他の相手を探す奥さんもいるわけだろ。君のママの場合、パパが好きなんだけど、拗ねて出ていった。それでまた引き返してくる。これはどういうことなんだよ?」
「簡単なことよ。パパも他に目移りしなかったでしょ」
ケンジは肯定した。
「サムが優しいからよ。どんな男だってママにとっては、サムにかなわないってこと」
ケンジは黙って頷いた。
窓の外では、サムとリンダが寄り添うように立っている。
その姿を見つめながら、ケンジは深い理解に至った。
愛とは、待つことではない。
愛とは、一歩を踏み出す勇気なんだ。
リンダは、愛する人の元へ戻るという、ちょっと困難な選択をした。
許されることを求め、傷つく覚悟で扉を叩いた。
大袈裟かもしれないけれど、待ち続けることよりも、遥かに大きな勇気が必要だった。
サムもまた、開かれた心で、リンダを受け入れる決断をした。
二人は、互いへの信頼を選び直した。
単なる時間の問題ではなく、愛という名の選択だった。
その選択が、今、この晴れやかな空の下で、新たな形となって実を結んでいた。
ケンジはエミリーを見て、優しく微笑んだ。
幸せとは、誰かと共に歩む勇気を持つことなのかもしれない。
誰もが自分なりの方法で、その勇気を見つけ出していくのだ。
待つということは、たいしたことではない。
待とうが待つまいが、時間は節操もなく過ぎていく。
実際、サムにはどうにも出来なかったんだ。
そうだよな、サム。
つづく
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