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僕は新しい職場、介護施設で働き始めた。
プログラマーの夢を半ば諦め、住んでいたアパートを引き払い、この施設の職員寮へと引っ越してきたのだ。
ここは家賃が周辺相場の半額以下で、食費を払えば安く食事も提供してもらえる。
何より魅力的だったのは、この寮には15人中7名がろう者だということ。
僕のような聴覚障害を持つ者にとって、居心地のいい環境だった。
人との繋がりが増え、手話での会話が日常になったおかげで、以前感じていた孤独感は薄れていった。
あれほど執着していたプログラミングへのこだわりも、いつしか薄れていった。
それが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか—自分でもよく分からない。
介護の仕事には意外とすぐに馴染めた。
お年寄りに食事の手伝いをしたり、おむつを替えたり。
入浴介助やレクリエーションもあるが、それは毎日ではない。
認知症の方は突然部屋からいなくなったり、転倒してケガをすることもあるため、常に目を配る必要がある。
それでも、以前働いていた施設よりは穏やかで、問題行動を起こす入居者は少なかった。
働き始めてたった一か月で、僕はもう夜勤もこなせるようになっていた。
寮の利用者はほとんどが女性で、男性スタッフは僕ともう一人、平石源太だけだった。
施設長の船橋さんもよく寮に出入りしていたが、彼はここには住んでおらず、近くに自宅があるらしい。
僕と平石はすぐに親しくなった。食事も出勤もいつも二人一緒だった。
この日も夕食を終えると、二人で施設から少し離れた公園のベンチに腰を下ろし、手話で会話を楽しんだ。
辺りはもう夕暮れに包まれていた。
寮の他の住人たちは、気の合う仲間の部屋に集まったり、一人でテレビを見たりして過ごしている頃だ。
平石は口話が全く駄目で、コミュニケーションは手話か筆談に限られていた。
でも決して寡黙な男ではなかった。頭の回転が速くて次々と話題を繰り出し、手話で饒舌に語る姿はいつも生き生きとしていた。
〈僕は奄美大島から来たんだ〉彼の手が物語る。〈両親には半年以上会ってないな。あの島には仕事がなくてさ。それでこっちに来たってわけ〉
僕も自分の話をした。
阿蘇の田舎からプログラマー見習いとしてやって来たこと。職場でコミュニケーションがうまくいかず、プログラミングよりも掃除ばかりさせられていたこと。
そして半年後のある日、会社に行ったら事務所がもぬけの殻になっていた顛末を。
自分でも気づいていたが、僕の話はどうしても身の上話に偏り、暗い内容になりがちだった。
平石はそんな僕の愚痴をさらりと受け流す様子で、あまり気にしていないようだった。
〈でも健聴者との共存なんて夢だよ〉僕の手が不満を形にする。〈そう思わない?手話を知っている人なんてほとんどいないし。最近はコロナでみんなマスクしてるから、読唇もできやしない〉
僕の手話はどんどん辛辣になっていった。自分でも止められない。
〈日本は特にそうだ。喋れる人の天下なんだよ。荷物持ちばかりやらされて、僕らだってやりたいことがあるのに。君もそう思うだろ?〉
よほど僕の表情がひどかったのだろう。平石は思わず苦笑した。
〈同感だよ〉彼は頷いた。〈まったくその通りさ〉
僕が更に愚痴を続けようとすると、平石は手で話を遮った。
〈トモロー、今日はお酒飲んでない?〉
〈ストロング缶を一本だけだよ〉僕は答えた。
〈ストロングはアル中になりやすいらしいぞ〉
〈ゲンタも飲もうよ。持ってこようか?〉
平石は面倒臭そうに両手を突き出して拒否した。そして無表情のまま手を激しく動かし始めた。
〈聴覚障害者がプログラマーになるって、そんなにハードル高いものかな?コミュニケーションだって、ほとんどパソコンに向き合う仕事なんだから、そこまで必要ないだろ?指示もメールや筆談で済ませればいいじゃないか〉
〈それが、全部「声」なんだよ〉僕の手話も荒々しくなっていく。
〈しかも最近はマスクのせいで読唇もできない。聞き返せば、ものすごく面倒くさそうな顔をされる。最後には完全無視だ〉
感情的になる僕を、平石は少し憐れむような目で見ていた。オーバーな身振りで彼は尋ねた。
〈マスクを外してくれって言えばいいじゃないか?〉
〈言ったさ。そしてやっと外してくれたんだ。何て言われたと思う?〉
〈何て言われたんだよ〉
〈「そんなにオレとキスしたいのか」って〉
〈うあぁ、マジか?〉
僕らは苦笑いして、一瞬手話を止めた。
静寂が二人を包み込む。
〈でもさぁ〉平石が再び手を動かす。〈そんな目に遭って、よく会社続いたね。そんなに面白いものなの?プログラマーって〉
〈いや、最後の方では3Dプリンターで変なオモチャばかり作らされてた。たぶんどこかの玩具メーカーの下請けで、内職とかも請け負っていたんだと思う〉
〈経営が苦しかったのかな?〉
〈たぶんね。でも…〉
僕は遠くに浮かぶビル群を眺めながら言った。いつの間にか空は深い藍色に染まり始めていた。
〈なぜかまだプログラミング、飽きたわけじゃないんだ〉
僕の手が語る。
〈分からないことばかりだけど、分かってくると面白いんだよね。でも最近、もうプロとしてやっていくのは無理かな、と思い始めている〉
〈なぜ無理なのさ?〉
〈邪魔だと思われてるからさ〉
平石は僕をじっと見つめて言った。〈トモローは頭がいいんだね〉
〈やめなよ〉
〈いや、冗談じゃなくてさ〉平石は手を動かす。〈まったく、僕なんか君が羨ましいよ。介護しかないんだから〉
夕闇が二人を包み込み、手の動きだけが空間に物語を紡いでいった。

つづく
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