翌朝、窓から差し込む陽光が僕の頬を撫でた。久しぶりに気持ちの良い朝だった。
寮の食堂で簡素な朝食を済ませると、体を動かしたくなって近所の公園へ足を向けた。
緑陰の小径をゆっくりと歩き、ベンチに腰を下ろす。
ジャングルジムでは、子どもたちが無邪気に遊んでいた。
その光景をしばらく眺めていると、心が和んだ。
腕時計に目をやると、もう出勤の時間が近い。
重い腰を上げて公園を後にし、施設へ向かった。
施設の玄関前で、思いがけず寮のリーダーである船橋と鉢合わせた。
彼は手話はそれほど上手ではないが、身振りが豊かで表情も分かりやすい。
僕とは口話で、平石とは手話で話すことが多い。
「やぁ、今から仕事かい?」
船橋の声は明るかったが、その瞬間、彼の目が僕から逸れた。
「はい、これから日勤です。船橋さんは夜勤明けですか?」
「え、あ……うん。早く帰って寝たいよ」
「ところで、昨夜は何をされていたんですか?」
昨夜のことが気になって尋ねてみた。寮の前で事務長と話していた男性の一人が、確かに船橋だったのだ。
「何って?」船橋は尋ねた。「何かあったのかい?」
「夜遅くに寮の外で事務長と話をしていましたよね」
「あぁ、あれね……」
船橋は少し間を置いてから答えた。
その間に、彼の表情が一瞬強張ったのを僕は見逃さなかった。
「仕事の話だよ」
笑顔に変わりはないが、その笑顔が作り物めいて見える。
「仕事って、こちらの施設の件ですか?」
「誰かと勤務を替わってくれって頼まれてね」
船橋の視線が再び宙を泳いだ。
彼の指が無意識にポケットの中で何かをもてあそんでいるのが分かる。
「それは昨夜の夜勤のことですか?」
「そうさ。突然の話で……まいったよ」
まるで自分自身に言い聞かせるようだった。
「ということは、あれからずっと夜勤をされていたと?」
「その通りだよ」
船橋は今度ははっきりと答えた。
僕は確信した。船橋は嘘をついている。
僕は人と話すとき、声よりも表情や口元、仕草を見る癖がついている。
船橋と別れた後、僕はいつものように介護業務に取り組んだ。
休憩時間になると、職員の勤務表を確認して、昨夜の夜勤者の名前を探してみた。
ところが、勤務表には「船橋 一樹」の名前は見当たらなかった。日勤スタッフに聞いても、誰も彼が夜勤をしたことを知らなかった。
僕は困惑した。
急遽代理で入ったため、まだ勤務表に反映されていないだけなのかもしれない。
だが、それならなぜ船橋はあんなに動揺していたのだろう。
その夜、またしてもアイドラゴンで奇妙な放送が始まった。
前回と同様、画面が激しく乱れ、映像も途切れ途切れだった。
フリースペースでくつろいでいた女性たちが、手話で不快感を表していた。
〈またこの男ね〉
〈きっとフェイクニュースよ。ネットで悪さしてるのよ〉
女性の一人が立ち上がり、モニターの電源を切った。
再起動すると、元の放送画面に戻る。
若い女性アナウンサーが手話で通常のニュースを伝えている。
〈こうすれば良いのよ〉彼女は得意げに手話で言った。
僕を含め、フリースペースにいた皆がクスクスと笑った。
その時、たまたま僕と平石のそばにいた船橋が、慌てたように席を立った。
テレビ画面を鋭く見つめたあと、足早にフリースペースを出て行く。
窓から外を見ると、彼が寮近くの老人ホームへ向かって駆けていく姿が見えた。
僕はトイレに行くふりをして、そっと寮を抜け出した。
平石は何も気づかず、復旧したテレビに見入っている。
時刻は午後八時。施設は入所者の個室がある二階の一部に明かりが灯っているだけで、一階の事務所は真っ暗だった。
船橋に気づかれないよう、僕は慎重に後をつけた。
施設の駐車場まで来ると、彼がそのまま建物の中に入るものと思ったが、意外にも施設を素通りして敷地の奥へ向かっていく。
船橋が辿り着いたのは、この地区の公民館だった。
寄棟屋根の白い建物で、「花咲町民ホーム」と書かれた看板が掲げられている。
大きな引き違い戸の正面玄関があったが、船橋は建物の裏手に回り、小さなドアから中に入った。
館内から漏れる灯りが見える。この時間にまだ何かの活動が行われているらしい。
花壇に埋め込まれた蓄光ライトが、建物をほのかに照らしていた。
僕は闇に身を潜めながら、そっと建物に近づいた。
周囲に人影がないのを確認すると、船橋が入ったドアから公民館の中へ足を踏み入れた。
つづく
