世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

サイレント・レジスタンス 9 誰かが見ている。

サイレント・レジスタンス 9 誰かが見ている。

第9話 誰かが見ている


 通路に出た瞬間、背後のドアが閉まりかけるより早く、誰かに腕を掴まれた。


 見知らぬ若者だった。僕と同じくらいの背丈で、目は鋭く、動きは早かった。


 彼は焦るように手話を使って尋ねてきた。


  〈ここで何をしていた〉


 威嚇するような、荒々しい手の動きだった。僕は落ち着き払って、わざとゆっくり手話を返した。


  〈今、帰るところさ。扉が開いてたから、ちょっと中を覗いただけ。興味本位でね〉


 手話での返答を期待していなかったのだろう、彼は虚を突かれたような顔をしていた。


  〈名前を教えろ〉


 若者は声を出さず、手話だけで問い詰めてくる。


 名前なんか教えるもんか。僕も手話で返す。


  〈スマホなら、返しておいたよ。キミのだったんだろ?〉


 彼はちらりとテーブルを見やったが、すぐに視線を戻し、さらに手話で問い詰めてきた。


  〈ここで話を聞いていたんだろ〉


 僕はとっさに答えた。


  〈僕もキミと同じ難聴だ。隣の部屋の声なんて聞こえるもんか〉


 もちろん、嘘だった。声は聞こえなくても、スマホに流れる文字は読んでいた。


 それでも彼は食い下がる。


  〈待ってくれ。こっちから話したいことがある〉


 若者の態度が、さっきまでとは少し違って見えた。


 だが、僕には彼の話を聞く気にはなれなかった。


 この顔つきは、ただの問いただしではない。


 僕は両手を広げ、彼との距離を取った。


  〈悪いけど、もう行くよ。黙って入ったのは謝る。誓ってもいいが、何も盗んでない〉


 そう言い捨てて、彼の横をすり抜ける。


 話を聞いている余裕なんてなかった。今はとにかくここを離れたい。それだけだった。


 冷静を装いながら建物を出る。


 振り返ると、若者は開け放たれたドアの前で動かずにいた。


 彼は繰り返し手話で訴えてくる。


  〈待ってくれ。これは大事な話なんだ〉


 僕は目を合わせず、片手を上げて素っ気なく別れを告げた。


 そのまま暗闇を歩く。来たときより、闇はずっと濃くなっていた。


 寮を目指して進む途中、ふと気配に気づいた。


 背後に、何かがついてくる。


 しかし誰の姿も見えない。


 夜空をふり返ると、黒塗りのドローンが無音のまま浮かんでいる。


 実際は音を立てているのだろうが、僕の耳には何も聞こえない。


 老人ホームの面接に来た日にも、同じようなドローンを見た。


 誰が、こんな時間に。なぜ。


 まさか……僕を追って?


 防犯用? 巡回用? いや、それだけじゃないような気がした。


 僕は平静を装い、何も気づいていないふりで歩き続けた。


 ドローンは低空で、明らかに僕の後をつけてきた。


 風が背中をなで、電線が微かに揺れた。生垣の枝もそよぐ。


 寮の前に着いた時、ドローンは進路を変えず、そのまま闇夜に溶け込んでいた。


 僕を追っていたわけじゃないのか?


 建物の二階から、数人が顔を出していた。どうやら彼女たちも気になったらしかった。


 玄関に入ると、平石が駆け寄ってきた。


  〈どこ行ってた?部屋にいないから心配した〉


  〈ちょっと散歩。食後の腹ごなしさ〉僕は軽く手話で返した。 〈あれ、何なんだろう〉と夜空を指さした。


  〈最近よく見るけど、誰が飛ばしてるのか分からない〉平石も不思議そうに言った。


  〈まだ上にいる〉


  〈ああ、いるな〉


 僕たちの会話をよそに、女性たちが数人、慌ただしく玄関に集まってきた。それぞれサンダルをつっかけ、外へ出ていく。


 二階にいた彼女たちだ。


 ドローンを指さしながら、


  〈ああいうのって石投げて落としたらダメなのかしら〉


 と手話で話している。


  〈彼女たち、石を投げるってさ〉平石が笑う。


  〈猿みたいだな〉僕も苦笑して、両手を振って警告する。 〈やめとけって〉


 しばらくして、ドローンは急旋回し、静かに別のエリアへと移動していった。


 やがて、姿も見えなくなった。


 女性たちは寮の中へ戻り、夜の通りには静けさが戻った。


 平石がぽつりと言った。


  〈あんなの、奄美大島にはなかったな〉


  〈熊本にもなかったよ〉


 僕も頷いた。

 

つづく

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