世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

サイレント・レジスタンス 22 手話通訳者との遭遇

サイレント・レジスタンス 22 手話通訳者との遭遇

第22話 手話通訳者との遭遇


 市役所から少し離れた社会福祉センターの駐車場で、僕は身を潜めていた。


 夜の冷たい空気が辺りを包んでいる。


 センターの出入口付近では、三人の女性が立ち話をしていた。やがて二人が建物の中へ戻り、一人だけが駐車場へ歩き出した。


 僕は車の陰に隠れ、腰をかがめて様子を窺った。


 黒いパンツスーツを着た女性だった。


 中背で細身。頭の切れそうな営業ウーマンといった印象だ。中ヒールのパンプスを履き、肩まで伸びた黒髪が歩くたびに揺れている。


 彼女は歩きながら、建物に残った女性に向かって手話を使っていた。


 手話ができる。


 僕が彼女に目をつけた理由は、それだけだった。


 女性は黒いSUVの前で立ち止まり、運転席のドアを開けた。


 その瞬間、僕は車の陰から飛び出した。


 彼女が振り返る。


 僕は拳銃を向けた。


 女性の顔が強張った。


 もちろん撃つつもりなんかない。


 そもそも弾は入っていない。


 しかし、そんなことを相手が知るはずもなかった。


 僕は手話で伝えた。


  〈騒がないで〉


 女性は動かなかった。


 僕は拳銃を見せたまま、運転席を指さした。


  〈乗って〉


 女性はしばらく僕を睨んでいたが、やがて運転席に乗り込んだ。


 僕も後部座席へ滑り込む。


 ドアを閉め、もう一度手話を使った。


  〈車を出して〉


 女性はバックミラー越しに僕を見た。


 それから、ゆっくりと車を発進させた。


 通りにはパトカーが何台も行き交っている。


 僕はなるべく身体を低くして、運転席の背もたれに隠れた。


 女性は意外なほど冷静だった。


 しばらく走ったところで、バックミラー越しにこちらを見ながら、片手で手話をした。


  〈どこへ行くの?〉


 僕も手話で返した。


  〈どこでもいい。この街を出るんだ〉


 女性が眉をひそめる。


  〈見えない〉


  〈え?〉


  〈あなたの手話。見えないのよ〉


 そりゃそうだ。


 僕は後部座席にいて、彼女は前を向いて運転している。


 バックミラーだけで手話の会話ができるわけがない。


 僕は身体を中央へずらし、前席の隙間から両手を突き出した。


  〈これなら?〉


 女性がちらりとこちらを見る。


  〈危ないからやめて〉


 もっともだった。


 僕は手を引っ込めた。


 しばらく、何もできなくなった。


 何のために手話のできる人を選んだんだ、僕は。


 車が赤信号で停まった。


 僕は運転席と助手席の間を見た。


 ここを通れないこともない。


 拳銃を握ったまま、後部座席から身を乗り出した。


  〈ちょっと待って〉


 女性が慌てて手を動かしたが、もう遅い。


 僕は前席の間に身体をねじ込み、センターコンソールに膝をぶつけながら、強引に助手席へ移った。


 狭い。


 思ったより狭い。


 足が引っかかった。


 何とか助手席に身体を落とす。


 女性が呆れた顔で僕を見ていた。


  〈何してるのよ〉


  〈手話が見えないって言っただろ〉


  〈だからって、普通そんな移動する?〉


 知らんがな。


 信号が青に変わり、車が再び走り出した。


 これでようやく、まともに話ができる。


 女性が僕を横目で見た。


  〈あなた、ろう者なの?〉


  〈いや。難聴だ〉


 僕は訊き返した。


  〈あなたは?〉


  〈手話通訳者よ〉


 やっぱりそうか。


  〈私のことを知ってたの?〉


  〈知らない。さっき手話をしているところを見ただけだ〉


 女性の表情が険しくなった。


  〈それで私を襲ったの?〉


 返す言葉がなかった。


 考えてみれば、ひどい話だ。


 手話ができるというだけで、見ず知らずの男に拳銃を突きつけられ、車まで運転させられている。


  〈危害を加えるつもりはない〉


 僕がそう伝えると、女性は露骨に嫌な顔をした。


  〈拳銃を持ってる人に言われても信用できないわ〉


 ごもっとも。


 僕は拳銃を見た。


 弾は入っていない。


 しかし、今ここでそれを説明したら、今度は僕が車から蹴り出されるかもしれない。


 拳銃を膝の上に置いたまま、僕は手話を続けた。


  〈とにかく話を聞いてほしい〉


  〈何の話?〉


  〈警察や自衛隊がおかしくなってる。人を襲ってるんだ〉


 女性の表情が変わった。


  〈知ってる〉


 僕は彼女を見た。


  〈知ってる?〉


  〈だから社会福祉センターに残っていたの。いろんな所から情報が入ってきてる〉


 初めて、彼女の方から僕を正面から見た。


 信号が赤になり、車が停まった。


  〈あなた、一体何者なの?〉


 僕は少し考えた。


 何者と言われても困る。


 介護施設に就職して一か月。


 住んでいた寮は壊され、警官に追い回され、拾った玩具の銃で応戦し、今は見知らぬ手話通訳者を拳銃で脅して車に乗っている。


 自分でも何者なのか分からない。


  〈ただの介護職員だよ〉


 女性はしばらく僕を見つめていた。


 そして、ため息をついた。


  〈ただの介護職員は、拳銃を持って人の車に乗り込まないわ〉


 まったくその通りだった。


 僕は空になった拳銃を握ったまま、何も返せなかった。


 車は再び走り出した。


 僕と彼女の間に、重苦しい沈黙が流れた。

つづく

どこでもいいって言ったでしょ?

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