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門前には「細川藩剣術指南役 天剣流 大久保道場」と書かれた看板が誇らしげに掲げられている。
大久保道場の庭には蝉の鳴き声が響いていた。
道場の中からは、激しい稽古の音が聞こえてきた。
稽古場では、師範代の武蔵春信が厳しい表情で弟子たちを指導していた。
その中でも特に、大久保真丸への稽古は苛烈を極めていた。
「ええぃ、情けないやつだ!真丸、しっかりしろ!」
武蔵の声が稽古場に響き渡る。
真丸は汗だくになりながら、必死に武蔵の攻撃をかわそうとしていたが、あっという間に木刀を弾き飛ばされてしまった。
「降参です」
真丸は息を切らしながら言った。
武蔵の目に怒りの色が浮かぶ。
「貴様!」彼は真丸を睨みつけた。「かかって来い!」
その瞬間、道場の娘である大久保史恵が割って入った。
「やめてください、武蔵様!ひどすぎます」
武蔵は史恵を厳しい目で見つめた。
「史恵殿。先生のお嬢様だからといって、私情を挟むことは許されませんぞ。稽古の妨げだ!」
真丸に向かって、武蔵は命じた。
「刀を拾え!構えろ!」
真丸は恐る恐る木刀を拾い上げた。
「うわぁ?ご勘弁を」
しかし、武蔵の厳しさは止まらない。
「ならん、まだまだ!」
史恵は心配そうに二人を見つめていた。
稽古の後、道場裏の井戸に史恵と真丸が残っていた。真丸は濡らした手拭いで肩を冷やしていた。
「武蔵様が真丸に厳しいのは分かっています。お前のお耳が…」
史恵は慰めるように言った。
しかし、真丸は史恵の言葉を遮った。
「いいえ!武蔵さんはそんな人ではありません。私が未熟なだけです…」
「あなたは武家に生まれるべきではなかった。学問に励んでおれば良かったものを…」
史恵が嘆くように呟いた。
真丸は一瞬考え込むように目を伏せた。
「それよりも、武蔵さん、何か焦っているように感じます…」
真丸は桶の水に手拭いを浸すと、それを絞って、また肩に置いた。
史恵は何も言わず、真丸の姿を見守っていた。
その頃、奥の間から咳き込む声が聞こえた。
咳の主は、病に伏せっている道場主、大久保藤淳だった。
「それはそうと、春信」
藤淳の声は弱々しかったが、威厳は失われていなかった。
武蔵は藤淳の方を向いて深々と頭を下げた。
「真丸へのしごき、いや稽古について、何か意図があるのか?」
藤淳は布団から身体を起こし、武蔵を見つめながら尋ねた。
武蔵は少し躊躇いながら答えた。
「いえ…門弟の中でも筆頭である真丸のさらなる成長を願っているだけです」
藤淳は深いため息をついた。
「私の取り越し苦労なら良いのだが…真丸に打ち込むお前の刀の音が、私にはお前が自分の気の迷いを断ち切ろうとしているように聞こえてしまうのだが…」
武蔵の表情が一瞬曇った。
「先生…それは」
藤淳は武蔵の様子を見逃さなかった。
「何か体の具合が悪いのか?私に何か隠していることはないか?」
武蔵は慌てて否定した。
「はい…そんなことは」
藤淳は武蔵をじっと見つめた。
「それなら、お前から史恵に伝えてくれ。武蔵様が変わってしまったと心配しているからな」
そして、藤淳は重要なことを付け加えた。
「いずれにせよ、お前には史恵と結ばれて、この大久保道場を継いでもらう必要がある」
武蔵の表情が複雑に変化した。彼の心の中で何かが揺れ動いているようだった。
大久保道場の稽古場には、重苦しい空気が漂っていた。
つづく
