世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

時の彼方で 9. 縁談

時の彼方で 9. 縁談

夜の静寂を切り裂くように、大久保道場の門が重々しく開かれた。

庭先に佇む松の枝が風に揺れ、葉擦れの音が低く響いていた。

道場の奥からは、灯りがぽつりと漏れている。

中に座る大久保藤淳は、病のためにやつれた顔を苦しげにしかめた。

布団に横たわる彼の元へ、娘の史恵がそっと歩み寄る。

「父上、お目付け役の牛俵重蔵様が参上されました」

史恵は慎重に言葉を選びながら、父に告げた。

藤淳は驚いたように目を開け、体を起こした。

「おや、目付様がいらっしゃるとは!急ぎ着替えねばならぬ」

史恵が手を差し出して藤淳を支えようとしたその時、障子の向こうから低く響く声が聞こえた。

「失礼仕る!」

藤淳が振り返ると、そこには背筋を伸ばした牛俵重蔵が立っていた。

堂々とした姿に、一瞬、藤淳の表情がたじろぐ。

「いや、そのままに致せ…」

牛俵は藤淳が布団から立ち上がろうとするのを制した。

「いや、これは何と…」

藤淳は戸惑いながらも、布団に座り直す。

牛俵重蔵はゆっくりと膝をつき、深々と頭を下げた。

「さて、わざわざお越しくださったご用件は何でござるか?」

藤淳が尋ねると、牛俵は静かに顔を上げた。

その眼差しは冷たく、何か決意を固めたような厳しさがあった。

「ご家老、合志十右衛門殿の御使いとして参上いたした」

牛俵の声には、どこか冷酷な響きがあった。

藤淳は少し身を乗り出し、「さよう仰せられますれば?」と静かに問い返した。

牛俵は息を吸い込み、史恵をじっと見つめた。

「史恵殿を、合志仙蔵殿の嫁に迎えたいと存じる。仙蔵殿は前々から史恵殿に想いを寄せておった」

その言葉に、藤淳の顔は一瞬、硬直した。

史恵は息を詰めて父の反応を待つ。

藤淳は寝間着の身頃を握りしめ、口を一文字に結んだ後、冷静に答えた。

「お目付殿、ご好意はありがたいのだが、史恵は既に他家と縁組が決まっており、婿を取ろうとしているところである」

牛俵の目が細められた。彼の声は一段と低くなり、威圧感を増した。

「それでは、承服しかねるということか?」

藤淳は一瞬目を閉じた。胸の内に湧き上がる怒りを抑え、静かに首を振った。

「そもそも、史恵を他家に嫁がせてしまえば、大久保家の血筋が絶えてしまうことになります。ご辞退申し上げる」

その言葉に、牛俵は思わず眉をひそめた。

「拒むというのか?」

その言葉には、強い圧力が込められていた。

藤淳は毅然とした表情で牛俵を見返し、はっきりと言い放った。

「この件は白紙に戻すよう、ご家老にお伝え願いたい」

牛俵はしばらく黙ったまま、藤淳の言葉を噛みしめるようにじっとしていた。

しかし、彼の心の奥には怒りが渦巻いていた。重蔵は口角に冷笑を浮かべた。

「もし断るというならば、病を患う貴公に代わって、葛西源生を剣術指南役に推す動きがあることを心得ておけ」

藤淳は怒りを抑えきれず、「しつこいぞ!」と声を荒げた。

牛俵は立ち上がり、藤淳に冷たい視線を投げつけた。

「言い置いたぞ!悔いを残すでないぞ!」

牛俵は捨て台詞を残して部屋を後にした。

藤淳は牛俵の背中を見送ると、史恵に向き直った。

史恵は不安げに父を見つめていた。

「お父様…」

藤淳は疲れ切った顔で微笑み、娘の手をそっと握りしめた。

「案ずるな、史恵」

道場の外では、牛俵重蔵が荒々しく門を閉め、冷たい夜風に身を包まれながら立ち去っていく。

その背中には、どこか薄暗い影が漂っていた。

 

つづく

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