世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

ネクロバズとむくつけき勇者たち 8 夕暮れの研究所

ネクロバズとむくつけき勇者たち 8 夕暮れの研究所

第8話 夕暮れの研究所

 夕暮れ時、ケンジは研究所を訪ねた。

 誰もいなかった。

 いつものように自転車を玄関脇に置き、スペアキーで戸を開ける。

 玄関から廊下の奥まで見渡したが、ひっそりと静まり返っていた。

 中は真っ暗だった。

 やっぱり誰もいない。

 ケンジはサンプルを置いていたラボを覗いてみた。

 何もなかった。

 組織サンプルも、その包装もすっかり片づけられている。おそらく分析は終わったのだろう。

 ケンジがいつも感心するのは、この研究所が妙にきれいに片づいていることだった。

 本棚は整然としているし、机の上に書籍が山積みになっているところなど見たことがない。

 さすがに埃や手垢までは手が回らないようだが、その程度のことはケンジも気にならなかった。

 オットー所長は、二年前に妻を亡くしている。

 彼女が運転していたワゴン車が、崖から転落したのだ。

 山中で調査をしていたオットーを迎えに行く途中だったという。

 警察の説明では事件性はなく、ブレーキ操作の遅れが原因とされていた。

 オットー自身は、めったに車を運転しない。

 妻を亡くしてからは研究所で自炊し、身の回りのこともすべて自分でするようになった。

 周囲から再婚を勧められたこともあったらしい。

 だが、オットーは頑なに断った。

 亡き妻へのプラトニックな感情というより、きっといろいろなことが面倒臭かったのだろう。

 少なくともケンジには、そう見えた。

 オットーは、このままずっと一人で生きるつもりらしい。

 ケンジはラボを出て、事務室を覗いた。

 四つの事務机が並んでいる。

 卓上にあるのは、FAX付きの電話が一台だけだった。

 研究所の助手として一年近く働いているが、ケンジはこの部屋で事務員らしき人間を見たことがない。

 以前オットーが、

「雇う金がない」

 と言っていた。

 埃をかぶったFAXの排紙トレイに、一枚の紙が載っていた。

 ものすごい筆圧で書き殴ったようなメモだった。

 リプリー警部補から、オットー所長宛てである。

「午前中に来たが、いませんでした。電語、下さい」

 角張った、妙に迫力のある字だった。

 お粗末な文章。

「電語」というのは、たぶん「電話」のことだろう。

 ケンジはメモの端に書かれていた番号へ電話してみた。

 きっかり一回のコールで、落ち着いた女性の声が応答した。

 リプリーの部屋に女性がいるはずはない。

 ということは、警察署内の番号なのだろう。

 リプリーを呼び出してもらった。

 やがて遠くから、聞き慣れたダミ声が近づいてきた。

「何だ、どうした、電話か、誰だ」

 怒鳴りながら受話器に接近してくる。

「もしもし」

「なんだ、お前か」

 おっかねえやつ。

「オットー所長は帰ってきたか」

 この男は、こちらの用件を聞くということをしない。

 ケンジは少しムッとした。

「帰っていないんでしょうね。研究所には誰もいませんでしたよ。ところで、うちの所長の出張先をご存じないでしょうか」

「はあ、出張なさった所は、何というか、その、ええと……」

 ダミ声が明らかにうろたえた。

 権威・権力の世界から、服従者の世界へようこそ。

「チェインバーグだ。他に何か聞きたいか」

 ちぇっ。

 言葉足らずな警察官め。

「何をするために?」

「そんなことは知らん」

「この前の死体の件はどうなったんですか」

「お前には関係ないことだ」

 電話は爆撃の余韻を残して切れた。

 チェインバーグは、州北部の辺鄙な田舎町だった。

 研究所の車庫を見ると、珍しく白いワゴン車がない。

 オットーが乗っていったのだろう。

 ウインドベルからチェインバーグまでは、車で三時間以上かかる。

 もう夜も近い。

 今日は帰ってこないだろう。

 ケンジはそう思った。

 

つづく

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