10
サムの店で所長と電話で喧嘩し、むかっ腹を立ててアパートに戻った。
アパートの部屋は見違えるほど綺麗になっていた。
汚れが溜まっていたシンクも、今はピカピカに輝いている。
古びた木製の書架も埃が払われ、本がきちんと整頓されていた。
「ありがとう、エミリー」
窓辺で遠くを見ているエミリーに、ケンジは声をかけた。
しかし、返事はなかった。
よく見ると、エミリーの右耳には補聴器が付いていた。
「エミリー」
ケンジがもう一度名前を呼ぶと、エミリーは我に返り、笑顔を作った。
「あなたの部屋、眺めが良いのね。ずっと海を見ていたの」
ケンジはどう返事すればいいかわからず、ニッコリすると黙っていた。
部屋には微妙な緊張感が漂っていた。
長い沈黙の中で、ケンジは言葉を見つけられずにいた。
もしかして、恋が始まるのかな?
「所長さんは何て言っていたの?」
エミリーが尋ねた。
「僕はチェインバーグに行くことになったんだ。理由は話してくれなかったけど、一方的だった」
「ふぅん、チェインバーグへ行くの?」
「行くけど、何か?」
「チェインバーグには、私の母がいるのよ」
「そうなのか、奇遇だな。…ってことは、マスターの、サムの奥さんだよね」
「そう、別居中なの」
「別れたっていうことなのかな?」
「うん、たぶん」
「どうして?」
エミリーは少し困ったよう顔をした。
「私は何も聞かされてないわ」
「ところで、エミリー、聞いてもいいかな。耳が悪いんだってね」
エミリーは困り顔のまま無言だった。
「やっぱり、こんな話はやめよう。ごめんな、エミリー。話下手でね」
エミリーはかぶりを振って無理に笑った。
「ううん、でも所長さんはどうしていたの?」
「所長は怪我をして、チェインバーグの病院で手当てを受けているらしい」
ケンジはエミリーが自分の唇を読んでいることに気づいた。
視線をそらすさず、ずっと直視しているのは、そのせいだ。
そうかぁ、向き合ってコミュニケーションする必要があるんだ。
ケンジは彼女の顔をじっと見つめ返した。
これでいいかな?何か話をしなくちゃ。
「エミリーのお母さんって、どんな人?」
「美しい人よ。若くて」
「そりゃあ、エミリーのママだからな。キレイなはずだよ」
エミリーは屈託なく笑った。
ケンジは片付いた部屋を見渡し、ダイニングテーブルに座った。
冷蔵庫には昨日買ったオレンジジュースが入っているはずだ。
ドアポケットからジュースを取り出そうとすると、
「私はコーヒーがいいわ」
エミリーがケンジに言った。
ああ、コーヒーは面倒くさい。
ケンジは申し訳なさそうに言った。
「コーヒーメーカーを研究所に持って行っちゃったんだ」
「機械がなくても、できるでしょ」
エミリーが不思議そうに言った。
「以前、レギュラーコーヒーをカップに入れて飲んだけど、なかなか溶けなかったんだ」
「えっ?レギュラーをカップに」
「もう何か溶けなくてさ、ペッペッで吐き出しながら飲むしかなかった」
「レギュラーコーヒーは溶けないのよ。研究所に勤めてるのに、抽出の仕方も知らないの?」
「何だ?『ちゅうしゅつ』って」
「お湯とかに浸して、中の成分だけ取り出すことよ」
「説明書には『抽出』って書いてなかったんだ。『付属の計量スプーンで分量を計り、当社の別売フィルターにて、熱湯を注ぎ』って」
「それが抽出よ。本当に大学に行ってるの?」
「『別売フィルターにて』って部分が分かりにくかった。『にて』って書き方は不親切だと思う」
「どう不親切なの?」
「別売フィルターに水を入れて、やかん代わりにお湯を沸かす人がいるかもしれないだろ」
「いない、いない。別売フィルターが何だか分かんなくて、コーヒーメーカーを買ったんでしょ」
「買ったんだけど、あれも使い方分かんなくて。研究所に持っていって、オットーに一万回くらい不味いと言われて、やっと最近マシなのが淹れることが出来るようになった」
「もう私がやるわ。作りたくないなら、そう言えばいいのよ。座ってて」
とエミリーが言うと、あっという間にペーパードリップ一式を取り出して、コーヒーを淹れてくれた。
ケンジは驚愕の眼差しでその様を見守った。
抽出されたコーヒーのしずくが、ガラスのポットに溜まっていく。
おぉー、こうやるのか。
「君は才能がある」
ケンジはコーヒーカップを受け取り、香りを嗅ぎながら言った。
紛れもない、香しいコーヒーの芳香…。
「僕はこいつを飲むのに、一年以上かかったんだぞ」
心なしかエミリーは楽し気に見えた。
楽しそうで何よりだとケンジは思った。
つづく
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