第25話 リプリー警部補の嘘だらけな朝
翌朝、目を覚ますと、ケンジはすぐにベッドから降りた。
窓から差し込む光が、まだ焦点の定まらない視界を白くぼかしている。
カーテンを開け、それからリプリーの部屋へ行ってみた。
ノックしても返事がない。
フロントに電話をして確認してもらった。
「そのお客様は、まだチェックアウトされていません」
「部屋にいるんですか?」
「いえ。お部屋にはいらっしゃらないようです」
「出かけたんじゃないですか?」
「ですが、チェックアウトはされていません」
ケンジは受話器を置いてから、そんな確認は無駄だったことに気づいた。
あの男がきちんと手続きをしてホテルを出ていくとは、とても思えない。
フロントの人間にしてみれば、昨夜は何か野獣のようなものがホテルを通過した――その程度の認識だったかもしれない。
仕事がなければ、リプリーの行き先など限られている。
食い物のある場所。
あるいは便所。
ケンジは七階のレストランへ向かった。
案の定、いた。
「やあ、ケンジ」
リプリーはパンを頬張りながら手を上げた。
「もう二つばかりパンを取ってきてくれ。それからスープもだ」
「スープはいくつ?」
「一つ」
リプリーは時計を見た。
「すぐ出かける。お前も支度しろ。一緒に行くぞ」
「どこへ?」
「決まってるだろ。病院だ」
さらにパンを口へ放り込んだ。
「ついでに言っておくが、支度っていうのは飯を食って便所を済ませることだ。分かったか、学生」
リプリーが座っている四人掛けのテーブルには、老夫婦が相席していた。
どう見ても場違いだった。
人間のランチタイムに、ウッドデッキへ熊が押しかけてきたような光景だ。
ケンジはつくづく思った。
この男は神経が太い。
俺なんか、知らない人と一緒に飯を食ったら、何を食ったのかすら覚えていないのに。
「あんたもここへ座りなさい」
老婦人が手招きした。
ケンジは仕方なく料理を取りに行った。
リプリーに頼まれたパンとスープを持ち、自分はスープだけを取って席へ戻った。
その間に、何かあったらしい。
リプリーと老人が揉めていた。
「だから、取ってくれと言ってるんだ」
老人が床を指していた。
ナプキンが落ちている。
「自分で取れ」
リプリーが言った。
「すぐそこじゃないか」
「俺のところからだってすぐそこだ」
ケンジは慌てて割って入った。
「リプリー警部補、ちょっとくらい親切にしたらどうです?」
リプリーは眉をひそめた。
「親切?」
「そうですよ」
「そんなものは捜査には役立たん」
老夫婦は顔を見合わせた。
老人がおそるおそる尋ねた。
「あの……もしかして警察の方ですか?」
リプリーは大きく頷いた。
「そうだ。殺人事件の捜査中でな」
老婦人が小さな悲鳴を上げた。
「まあ! このホテルで殺人事件ですって?」
「いや、違います」
ケンジは慌てた。
「実はですね――」
「実はも何もない。事実だ」
リプリーが遮った。
老夫婦の顔色が変わった。
「犯人は捕まったんですか?」
「いや。まだ潜伏中だ」
「潜伏中?」
老婦人の声が震えた。
「私たち、今日チェックアウトするんですけど……大丈夫かしら?」
リプリーは無表情だった。
「さあな。犯人を捕まえるまでは、誰も安全とは言えん」
「この人、冗談ばっかり言うんですよ!」
ケンジが言った。
だが、もう遅かった。
老人が勢いよく立ち上がった。
「よし。荷物をまとめるぞ。今すぐチェックアウトだ!」
「あなた!」
老夫婦は慌てて席を立ち、レストランから出ていった。
ケンジはため息をついた。
「リプリーさん。あんまりですよ」
「何が?」
リプリーは平然とスープを飲んだ。
「おかげで静かに食事できるじゃないか」
笑っていいのか怒るべきなのか、ケンジには分からなかった。
リプリーの野獣のような食欲を眺めながら、ケンジは自分のスープを飲んだ。
やがて食事を終え、二人はフロントへ向かった。
先ほどの老夫婦が、大慌てでチェックアウトの手続きをしている。
ケンジたちの姿に気づくと、二人は小さな悲鳴を上げた。
そして荷物を抱え、逃げるようにホテルを出ていった。
リプリーは満足そうだった。
「さて」
背伸びをした。
「邪魔者もいなくなった。本格的に捜査を始めるか」
「何が邪魔なんですか」
ケンジは呆れた。
「弱い人を怖がらせて。あんた、もう少し年寄りの気持ちを考えたほうがいいですよ」
リプリーはケンジを見た。
「俺だって年寄りになる」
「その前に人間になってください」
リプリーは鼻を鳴らした。
そして何事もなかったように歩き出した。
ケンジも、その後を追った。
結局、この型破りな刑事についていくしかないらしい。
つづく
