第31話 狂いゆく男
夜半。
ウインドベル自然科学研究所の前を走る通りに、一台の黒いアウトランダーが止まった。
運転席にいる男は、上気した赤い顔をしていた。
しばらく車内で研究所を眺めていたが、やがてドアを開けた。
後部座席からゴルフバッグを引っ張り出し、肩に担ぐ。
研究所の門をくぐり、建物の裏手へ向かった。
酔っていた。
それでも足取りはしっかりしている。
男は狩猟用のベストを身につけていた。
通りから姿が見えない場所まで来ると、ゴルフバッグを地面に下ろした。
中から取り出したのは、レミントン社のライフル銃だった。
ライフルを右肩に掛ける。
そしてベストのポケットから、ウイスキーのハーフパイント瓶を取り出した。
瓶から直接あおった。
焼けるような感覚が喉を伝う。
頭の奥に、軽い衝撃が走った。
もっと酔えばいい。
いっそのこと幻覚でも見えればいい。
女神でも天使でも何でもいい。
俺の前に現れて、もう大丈夫だと言ってくれれば、それでいい。
だが、そんなものは現れなかった。
緊張はいくらか解けた。
その代わり、興奮だけが高まっていく。
トレーシーは口の中に残った苦い液体を飲み込んだ。
こいつが俺を駄目にした。
そう思った。
それでも、また瓶に口をつけた。
酔いが深くなるにつれ、周囲のすべてが自分を警戒しているような気がしてきた。
人の視線。
声。
ちょっとした仕草。
どれもが自分を恐れ、嘲り、遠ざけようとしているように思える。
すると、腹が立った。
何を怖がっている。
俺が何をしたというんだ。
そう思った直後、トレーシーは笑った。
何をしたというんだ、だって?
十年前。
同じように酒を飲み、同じように世界中の人間が自分を敵視していると思い込み、彼は人を殺した。
忘れたことなどない。
忘れられるはずもなかった。
トレーシーの目に、かつての危うい光が戻りつつあった。
パルチノンの親父さんは、こんな俺を更生させるつもりだったんだ。
それだけは疑いたくない。
俺みたいな人間を拾ってくれた。
仕事をくれた。
生き直せと言ってくれた。
だけど、もう終わりだよ、親父さん。
あんたの息子がウインドベルで失敗してから、俺は尻拭いばかりやらされている。
ハエを始末しろ。
人を脅せ。
邪魔な奴を消せ。
そして今度はオットーだ。
でも、これで終わりだよ。
これが最後だ。
仕事が終わったら、ビールでも飲もう。
腹いっぱい飲んで、何も分からなくなればいい。
その後のことなんか、もうどうでもいい。
視界が狭くなっていった。
研究所の窓だけが、妙にはっきりと見える。
一階の窓には鍵が掛かっていた。
トレーシーは何度か窓枠に手を掛けたが、開かなかった。
「ちくしょう……」
小さく呟いた。
とにかく中に入るんだ。
それだけを考えろ。
トレーシーは建物を見上げた。
二階。
一つだけ、窓が開いていた。
裏手には物置がある。
トレーシーはそこによじ登った。
足元がぐらついた。
酒のせいなのか、恐怖のせいなのか、自分でも分からなかった。
二階の窓枠に手を掛ける。
身体を引き寄せた。
片足を窓の中へ入れる。
その時、肩に掛けていたライフルが窓枠にぶつかった。
トレーシーは動きを止めた。
静まり返った研究所の中で、その音だけがやけに大きく響いた。
「邪魔なんだよ……」
トレーシーはライフルを睨んだ。
まるで、自分をここまで連れてきたのが、その銃であるかのように。
つづく
