32
ケンジがハエに関する事の一部始終を、ノートパソコンに入力し終え最後のピリオドを打った瞬間、モニターが青白い光を放ったまま突如として消えた。
研究所全体が闇に飲み込まれるように、一瞬で静寂が支配した。
夜の八時を少し回ったところだった。
窓からは月明かりすら漏れてこない。
まるで深海に沈んでいくような暗闇が、一階の廊下を覆い尽くしていた。
「くそ…」
慌ててスマートフォンを取り出そうとした瞬間、椅子に膝を強打した。
鈍い痛みと共に低い呪いの言葉が漏れる。
ブレーカーなら階段の踊り場にある。
その位置だけは、頭の中で鮮明に描けた。
ケンジは壁を手探りながら、暗闇の中を歩き始めた。
その時、背後から微かな風の動きを感じた。
振り向こうとした刹那、後頭部に鈍い衝撃が走った。
まるで雷に打たれたような痛みが、頭蓋の中で爆発する。
「ッ…!」
声にならない呻きを漏らし、膝から崩れ落ちる。
床に這いつくばったまま、必死で意識を保とうとした。
研究室のデスクの上。そこに固定電話があるはずだ。
しかし、闇の中で手を伸ばしても、冷たい床を撫でるだけだった。
誰かの重たい足音が遠ざかってゆく。
それは、まるで死神の足音のように、規則正しく、冷酷に床に響いていた。
微かに呼吸音が聞こえた。
それはため息のような呼吸だった。
ケンジの意識は、まるで砂時計から零れ落ちる砂のように、少しずつ、確実に失われていった。
最後に聞こえたのは、誰かが「こいつしか居ねえのか」と囁くような声だった。
そして、全ては深い闇の中に溶けていった。
古びた蛍光灯が明滅する廊下の先、リプリーはウインドベル署長室で時を刻んでいた。
革張りのソファは長時間座っているうちに体温で温まり、不快な蒸れを感じさせていた。
窓から差し込む午後の日差しが、埃っぽい空気を黄金色に染め上げる。すでに一時間が経過していた。
「まだ分からんのかね、リプリー」
署長の声には、いつもの苛立ちが混じっている。
デスクの上には、オットーから受け取った資料が、まるで両者の攻防の象徴のように置かれていた。
三度手渡し、三度突き返された書類。
四度目の正直を狙うリプリーの顔には、こういった小競り合いに慣れた男特有の、どこか投げやりな諦めと、しかし決して譲らない執念が混在していた。
「この件には、我々は手を出せないんだ」
署長の声が、閉め切った部屋に響く。
「チェインバーグ署の連中に、何が出来るというんです」
リプリーの声には、かすかな焦りが混じっていた。
「だからといって、ウインドベルでどういう仕事が出来る?それにこの種のことは、チェインバーグだけが抱えている問題じゃないんだぞ。どの都市でもありふれたことなんだ」
署長は椅子に深く背を預け、天井の染みを見上げた。
「カシワラは、何と」
「彼はもう引退した警察の人間だ。以前のようにウインドベル署長の権限を振り回すことはできん。お前が慕う気持ちは分かるが、カシワラを殺す気か」
リプリーは書類を握りしめた。紙が皺になる音が静かな部屋に響く。
「とにかくこれを読んでください。ありふれた問題じゃないということが、分かるはずです」
蛍光灯の下で、署長の赤ら顔が一層際立って見えた。
中肉中背の体格、五十七という年齢を感じさせる深いしわ。
普段から大声で怒鳴る癖があり、特にリプリーのような頑固な部下と話をしているときは、その血圧計の数値が跳ね上がることは署内でも有名な話だった。
「お前の話は分かった。それは預かっておこうじゃないか」
署長の声には、明らかな諦めが混じっていた。
「言っておきますが、こいつはコピーです」
「別にかまわんだろ」
「…どうするつもりです」
「いちおう目を通す」
「ゴミ箱に捨てるつもりですか。捨てても、まだ何枚もありますよ」
「ゴミ箱が腐る。全部ここに置いておけ」
署長は自分のデスクを指差した。
光沢のある木製デスクの上に、リプリーはそっと書類を置いた。
署長の顔には、もう消えてくれという無言の嘆願が刻まれている。
重たい足取りで殺人課へ戻る廊下には、午後の憂鬱な空気が漂っていた。
殺人課の事務職員が、リプリーを探していた。
首の太い女だと、リプリーは常々思っていた。
ジュードーは女の首を太くする。
「あんたに電話が掛かってきたのよ」
彼女の声には、いつもの皮肉めいた調子が混じっている。
「どこに」
「ここよ。私の机に」
事務員の机の上には、年季の入った電話が置かれていた。
「もう切れたのか。誰からだ」
「知らないわよ。無言電話だったわ」
「無言電話?なぜ俺あての電話だと分かる」
「あんたの名前を囁いていたのよ、若い男の子がヤラシイ喘ぎ声で。あんた近頃、変な遊びを始めたんじゃないの」
「知らん。女も口説けない男が、どうやって若い男を口説けるんだ」
妙な理屈だったが、一応の説得力はある。
事務員の机の電話が、再び鋭い音を発した。
今度は別の警部補あての電話だった。
落ち着かない気持ちが、リプリーの胸の内で渦を巻いていた。
課の無線からウインドベルM地区での発砲騒ぎの情報が流れてきた時、彼は誰の指示も待たずに、すでに動き出していた。
あの研究所で何かが起きている―。
電話の主は、ケンジかもしれない。
地下駐車場の薄暗がりの中、スバルのエンジン音が響く。
急発進で車体が軋んだ音に、リプリーは眉をひそめた。
買い替え時か。
彼の乗る青いスバルは、夕暮れ時のウインドベル署を後にした。その影は、街灯の光の中に溶けていくように消えていった。
つづく
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