第34話 ケンジの選択
ケンジはレストラン「サム」へ顔を見せた。
リンダはチェインバーグから戻ってきていたが、もう別の勤め先を見つけたらしい。
チェインバーグでもらった賞与に味をしめ、今度は近所のIC工場で働き始めたという。
もちろん、今度はサムたちと同居している。
エミリーとアレンも同じ学校へ通っていた。
家事一切をこなせる旦那を持つ妻というのは、ひたすら太るか、やみくもに働くことによってウサを晴らすものなのかもしれない。
リンダは後者を選んだらしい。
まだ午後に入って間もない頃だった。
外は曇っていた。
レストランの窓から、ゴミ回収の職員が喧嘩しているのが見えた。
回収車の運転手と、ゴミ袋を積み込む男が、大声で怒鳴り合っている。
運転手にしてみれば、時間通りに作業を終え、無駄なくタイムカードを打刻したい。
回収する側にしてみれば、可燃ゴミの袋に混じった不燃物が気に食わない。自分のポリシーに反するから、そんなものを回収車に放り込む気にはなれない。
商人気質と職人気質。
どちらも間違ってはいない。
だから余計に話がまとまらない。
ケンジは向かいのテーブルで帳簿を整理しているサム・フックスを見た。
オーバーオールに赤いタートルネックのセーターを着ている。
ただでさえ首が短いのに、なぜそんなものを着るのだろう。
スーパーマリオに見えなくもない。
「ケンジ」
サムが帳簿から顔を上げた。
「オットー所長がおととい、ここに来てね。お前のことを話していたよ」
「どうせ、俺の精神状態がどうのこうのって話だろ」
「いや、そうじゃない。どうして就職しなかった」
「まだ、よく分からないんだ」
「何がだ?」
「自分の希望が」
「希望?」
サムは笑った。
その笑い方だけで、何を言いたいのか分かった。
――希望通りにいくのが、お前の人生観か。
「いいか、ケンジ。人間は食っていかなきゃならない。そのためには金が必要だよな」
ケンジは面倒くさそうに頷いた。
「どういうつもりなのか聞いてくれと、オットー氏に頼まれた。だから聞く。どういうつもりだ?」
「まだ考えがまとまらないんだ」
「まとまるまで、どれくらいかかる」
「分からない」
サムはまた笑った。
「最近、お前みたいな若いのが多いな」
「何だよ」
「どうしても自分が納得できなきゃ、金も稼げないのか。気に入らない仕事なら、信頼をドブに捨てるような真似も平気でする。お前たちは甘いよ」
「そうじゃないんだ。進路だったら、十分考えたよ、サム」
「ほう。それで、お前はいったい何をやりたいんだ」
ケンジは黙った。
「何だ。言ってみろ」
「笑うから言わないだけだ」
サムはケンジを見た。
たぶん、分かっている。
「ごめんよ、サム。自分で所長に掛け合うつもりなんだ」
「そうか」
サムはそれ以上笑わなかった。
「駄目だったら、どうする」
「駄目だった時に、また考えるよ」
しばらくして、サムは頷いた。
そして帳簿を閉じ、テーブルの上を片づけ始めた。
帳簿整理が終わったのか、ケンジとの話が馬鹿馬鹿しくなったのか、それは分からない。
もし所長を説得できたら、俺も経理くらい勉強しなきゃならないのかな。
ケンジはそんなことを考えた。
「じゃあ、行ってくるよ」
「おう」
「止めないのかい」
「止めてほしいのか?」
「いや」
「だったら行ってこい」
ケンジは店を出た。
外では、まだゴミ回収の二人が喧嘩していた。
こいつらも自分の仕事について、いろいろ考えるところがあるのだろう。
ケンジは研究所へ向かった。
研究所に着くと、オットーは実験室にいた。
白衣姿で、何かの資料を読みながら器具をいじっている。
ケンジは入口で少しためらった。
ここで何を言うのかは、歩いている間に何度も考えた。
それなのに、本人を前にすると全部忘れた。
「所長」
オットーが顔を上げた。
「どうした、ケンジ」
「あの……話があるんです」
「金なら貸さんぞ」
「違います」
「では何だ」
ケンジは息を吸った。
「俺、ここで働きたいんです」
オットーの手が止まった。
「ここで?」
「はい」
「どうして」
そこを訊かれると困る。
ケンジはしばらく黙っていた。
「分からないんです」
「何だ、それは」
「分からないけど、ここにいたいんです」
オットーは黙ってケンジを見ていた。
「一般企業に就職することも考えました。給料をもらって、普通に働いて……それでいいと思っていたんです。でも、チェインバーグへ行って、所長やリプリー警部補といろんなものを見て……」
「巨大なハエとか?」
「それは、できれば二度と見たくありません」
オットーが笑った。
「でも、分からないことを調べるのは面白かった。怖かったけど、面白かったんです。俺はまだ大したこともできないけど、ここでなら何かできるような気がするんです」
「気がする、か」
「はい」
「ずいぶん頼りない志望動機だな」
「自分でもそう思います」
オットーは椅子に腰を下ろした。
「ここは大した研究所じゃないぞ。金もない。人もいない。給料だって期待するな」
「はい」
「地味な仕事も多い。資料整理、掃除、電話番。研究なんて名前のつかない仕事のほうが多いくらいだ」
「それでもいいです」
「パンダのフィギュアを作ることもある」
「それはもう勘弁してください」
オットーは笑った。
やがて机の上に積まれていた書類を一つ取り上げた。
パルチノン公害に関する資料だった。
「当分、この問題は続く」
「はい」
「訴追に必要な調査資料をまとめなきゃならん。面倒だぞ」
「やります」
オットーはケンジをしばらく見つめていた。
そして手を差し出した。
「それじゃ、しばらく使ってみるか」
ケンジはその手を握った。
採用なのか、試用なのか。
よく分からなかった。
でも、今はそれで十分だった。
「それではまず……」
オットーが言った。
ケンジは少し緊張した。
研究所の一員として、初めて仕事を命じられる。
「コーヒーを入れてくれ」
「……それですか」
「それだ」
ケンジは失笑した。
だが、嫌な気はしなかった。
踵を返し、コーヒーメーカーのある部屋へ向かう。
研究者としての第一歩がコーヒー係というのも、悪くない。
少なくとも、パンダのフィギュアよりはましだった。
ケンジはそう思った。
