世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

ネクロバズとむくつけき勇者たち 35 紫煙の監視者

ネクロバズとむくつけき勇者たち 35 紫煙の監視者

第35話 紫煙の監視者

 チェインバーグの深夜。

 禁猟区は荘厳な静けさに包まれていた。

 密林の中を、一台の大型トラックが走っていた。

 木々の隙間から差し込む月光がキャビンを照らし、まだら模様となって流れていく。

 やがてトラックは森の奥の開けた場所にたどり着いた。

 停車すると、一人の男が運転席へ駆け寄ってきた。

 禁猟区の監視員だった。

 日に焼けた顔。薄汚れた制服。手には強力なライトを持っている。

 ライトを顔に向けられ、運転席の若者は目を細めた。

 二十代半ばくらいだろうか。

 若い顔には、不釣り合いなほどの疲労と焦燥が浮かんでいた。

「本当にやる気か、ハーバート」

 監視員が低い声で尋ねた。

「やらなきゃ、仕事を失うんでね」

「トレースは結局、どうなった」

「ブロック長のことかい」

 ハーバートは少し間を置いた。

「死んだよ」

「殺されたのか」

「警察に射殺されたんだよ」

 監視員は黙った。

 やがて制服のポケットからタバコを取り出し、一本をハーバートに勧めた。

 若者は首を振った。

 監視員は自分の口にくわえ、火をつけた。

「トレースは良い奴だった」

 紫煙を吐きながら言った。

「あれで酒さえ飲まなければ、何一つ間違うことのない人間だった」

 ハーバートは答えなかった。

「今の会社じゃなければ駄目なのか」

「なぜ、そんなことを訊くんだ」

「やり直せると、お前に言っているんだ」

 ハーバートは鼻で笑った。

「そういうあんただって、俺の会社に買収されているじゃないか」

 監視員はしばらく黙っていた。

「買収されちゃいない」

「同じことだろ」

「違う」

 監視員はタバコを指に挟み、暗い森を見た。

「チェインバーグで働く人間は、あの連中に自分の意志を抜き取られてしまっただけだ」

「何とでも言え」

 ハーバートはエンジンをかけた。

「どう報告したところで、パルチノンの都合のいいようにしか伝わらないんだ」

 トラックは急発進した。

 監視員は追わなかった。

 ただ、その赤いテールランプが森の中へ消えていくのを見送っていた。

 ハーバートは大バエの巣穴から五百メートルほど離れた場所にトラックを止めた。

 道路はとうに途切れていた。

 ここまで荒れた砂利道を十キロ近く走ってきたが、これ以上大型トラックで進むのは無理だった。

 荷台には赤いバギー車が積んである。

 ハーバートはそれを降ろし、燃料ボンベを積み込んだ。

 ゴムチューブで固定すると、エンジンをかけた。

 トレーシーと一緒に、この場所を十数回訪れたことがある。

 勝手は分かっていた。

 岩場に着くと、バギーを止めた。

 ポリ缶とバーナーを抱え、巣穴へ近づいていく。

 大バエの習性も知っている。

 直接攻撃されれば激しく反応する。

 だが、それ以外の刺激には驚くほど鈍感だった。

 ハーバートはポリ缶を傾けた。

 ガソリンが静かに巣穴へ流れ込んでいく。

 穴は直径一メートルほど。

 岩盤質のため、油はほとんど地面に染み込まず、そのまま暗い穴の奥へ消えていった。

 二つ、三つ。

 巣穴を移りながら、同じことを繰り返した。

 ポリ缶が空になりかけた頃だった。

 奥から羽音が聞こえた。

 気づいた。

 ハーバートは急いで巣穴から離れた。

 バーナーに点火する。

 炎を放った。

 巣穴が一気に燃え上がった。

 闇の中にハーバートの姿が赤々と浮かび上がる。

 穴の奥から何かが飛び出した。

 炎に包まれた大バエだった。

 飛び立とうとしている。

 だが、羽はすでに焼け落ちていた。

 それでも生きようとしていた。

 次々と、炎に包まれた仲間が穴から這い出してくる。

 一匹はそのまま闇へ走り、やがて姿を消した。

 ハーバートへ向かってくるものもいた。

 バーナーを向ける。

 炎が化け物を包んだ。

 牛一頭でも丸焼きにできそうな火力だった。

 大バエはたちまち動かなくなった。

 一本。

 二本。

 三本。

 燃料を使い切ったところで、ハーバートは焦り始めた。

「チクショウ……いったい何匹いるんだ」

 まだ出てくる。

 次から次へと、燃えながら這い出してくる。

 ハーバートには、その行動が理解できなかった。

 外へ出ても無駄なのだ。

 自分たちが炎に包まれていることさえ、分からないのか。

「馬鹿野郎……」

 なぜか腹が立った。

 最後のボンベをバーナーに取り付けた時、ハーバートは森を見た。

 最初から、上の連中はこれを望んでいたのだ。

 山を焼けとは言わなかった。

 そんな命令を口にするはずがない。

 ――完全に処分できるのなら、方法はお前に任せる。

 それだけだった。

 だが、意味は分かっている。

 全部燃やせ。

 証拠も。

 ハエも。

 山も。

「クソッ……」

 ハーバートはバーナーを森へ向けた。

 炎を放った。

 枯れ草に火が走った。

 藪へ燃え移り、やがて一本の老木が炎に包まれた。

 その炎が隣の木へ移る。

 さらにその隣へ。

 森が燃え始めた。

 ハーバートは黙って炎を見ていた。

 俺が山を焼いたところで、パルチノンが揉み消してくれる。

 たぶん罪にもならない。

 少なくとも、チェインバーグ署の連中が頭を働かせなきゃならないような罪には。

 あいつらのドタマは、とっくにうちの会社に禁則処理されている。

 炎はさらに広がった。

 木々が悲鳴を上げるように爆ぜた。

 暗かった山肌が、赤く染まっていく。

 遠く離れた場所で、監視員はその光景を見ていた。

 夜空へ紫色の煙が昇っている。

 彼はタバコを吸った。

 そして、何もしなかった。

 消火を呼ぶことも。

 ハーバートを止めることも。

 パルチノンへ連絡することも。

 ただ、煙を見ていた。

 自分以外の誰かが通報するだろう。

 そう思った。

 いや。

 そう思うことにした。

 やがて森の奥から大型トラックが戻ってきた。

 ハーバートだった。

 監視員の前を通り過ぎる時、二人の目が合った。

 ハーバートは視線を逸らした。

 そして、薄く笑った。

 監視員は何も言わなかった。

 トラックはそのまま山道を下っていった。

 残された監視員は、もう一度タバコを吸った。

 吐き出した紫煙が、山火事の煙と重なった。

 どちらが自分の煙なのか、もう分からなかった。

 

つづく

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