第37話 襲来
その日の朝。
チェインバーグの街は、いつもと変わらない一日を始めようとしていた。
小学生の男の子が、学校へ向かう途中でコンビニに立ち寄った。
飲み物を買おうとして、店内のテレビに目を留めた。
「チェインバーグ国定公園で発生した大規模な山火事は、現在も延焼を続けています。煙は市街地にも到達しており――」
画面には、山肌から立ち上る黒煙が映っていた。
その時、アナウンサーの声が変わった。
「ここで新しい情報が入りました」
少年はレジへ向かいかけた足を止めた。
「国定公園付近で、巨大な昆虫を目撃したという通報が相次いでいます。その一部はハエに似た形状をしているとのことです」
映像が切り替わった。
ひどく揺れた素人撮影の映像だった。
道路脇の木立。
その上を、黒い何かが飛んでいる。
鳥ではない。
羽ばたき方がおかしい。
そして、何より大きすぎた。
「うわ……」
少年は声を漏らした。
店員も仕事の手を止めて、テレビを見ていた。
少年は母親から聞いた昔の話を思い出した。
五年前。
パルチノンという会社が起こした薬害事件。
母親は環境保護団体で働いていて、時々その話をしていた。
――あの事件、本当は終わってないのよ。
なぜか、その言葉だけを覚えていた。
午前中になると、巨大昆虫の話題はチェインバーグ中に広がっていた。
テレビには生物学者が出演し、繰り返し流される映像を見ながら困惑していた。
「映像だけでは断定できません。しかし、これが本当にハエの仲間だとすれば、この大きさは通常の生育では説明できません。何らかの人為的要因も――」
その言葉を遮るように、速報が入った。
「新しい情報です。巨大なハエとみられる生物は、これまでに少なくとも五匹確認されています」
五匹。
その数字は、昼を過ぎる頃には意味を失っていた。
街のあちこちで目撃情報が相次いだからだ。
「窓を閉めて!」
「暑いじゃない」
「ハエが入ってくるよりいいでしょ!」
そんな会話が、住宅街のあちこちで聞かれるようになった。
学校では児童を外へ出さないよう指示が出た。
商店では入口を閉めたまま営業するところが増えた。
それでも、まだ誰も本気では怖がっていなかった。
ハエなのだ。
いくら大きくても、ハエはハエだ。
そう思っていた。
チェインバーグ警察は昼過ぎに記者会見を開いた。
「現時点で、国定公園の山火事と巨大昆虫の出現との関連性は確認されておりません。また、市民の皆さんには不用意に近づかず――」
記者の一人が手を挙げた。
「五年前のパルチノン薬害との関係は?」
警察側の人間は、一瞬黙った。
「現時点では確認されておりません」
それから数時間後。
ウインドベル警察が、一つの資料を公表した。
五年前、フレデリック・オットーが環境当局へ提出していた調査資料だった。
そこには、パルチノンの工場廃液と昆虫の異常成長について記されていた。
そして添付されていた写真。
今回、チェインバーグに現れたものと酷似した巨大なハエが写っていた。
夕方。
事態は一変した。
「助けて!」
商店街に悲鳴が響いた。
最初の一匹が、人間を襲った。
いや。
最初だったのかどうかは、もう誰にも分からなかった。
防犯カメラには、逃げ惑う買い物客の姿が映っていた。
画面の上から黒い影が降りてくる。
人が倒れる。
別の影が飛んでくる。
悲鳴。
転倒する人々。
放り出された買い物袋。
道路を転がる果物。
そして耳障りな羽音。
一匹ではなかった。
五匹でもなかった。
森から飛び出した大バエたちは、すでに市街地へ入り込んでいた。
警察も消防も対応できなかった。
銃声が聞こえたという証言もあった。
しかし、どこで誰が撃ったのかさえ分からないほど、街は混乱していた。
日が暮れる頃には、死者は五十人を超えていた。
病院には負傷者が次々と運び込まれた。
テレビカメラの前を、ストレッチャーが通り過ぎる。
その上に小さな少年が横たわっていた。
左腕をひどく損傷していた。
「レン! レン!」
母親がストレッチャーを追いかけていた。
「しっかりして!」
「下がってください!」
看護師が報道陣を押しのけた。
「搬送の邪魔です!」
少年の身体が痙攣した。
母親が名前を呼び続ける。
救急処置室の扉が閉まった。
そこで映像は途切れた。
夜。
チェインバーグ市は非常事態を宣言した。
不要不急の外出は禁止。
窓を閉め、屋内から出ないこと。
巨大昆虫を発見しても、決して近づかないこと。
同じ警告がテレビとラジオから何度も繰り返された。
街から人影が消えた。
道路には乗り捨てられた車が残されている。
信号だけが、誰もいない交差点で規則正しく色を変えていた。
そして時折。
街灯の上を巨大な影が横切った。
羽音がする。
一匹。
また一匹。
どこかで悲鳴が上がった。
チェインバーグの夜空を、大バエたちが飛んでいた。
朝、コンビニのテレビを見ていた少年は、自宅の窓からその影を見上げていた。
母親が後ろからカーテンを閉めた。
「あの時、私たちは警告したの」
母親は呟いた。
「でも、誰も本気で聞かなかった」
少年は黙って母親を見た。
外から、重い羽音が聞こえた。
母親は少年の肩を抱いた。
「そして今、その代償を払っているのよ」
羽音は一度遠ざかった。
だが、すぐに別の羽音が聞こえてきた。
今度は一つではなかった。
悪夢は、始まったばかりだった。
つづく
