第41話 白衣とウェディングドレス
ケンジとエミリーが庭へ下りた時、結婚式はすでに始まっていた。
春の陽射しが研究所の白壁を優しく照らしている。
玄関前には、蝶が舞うように大勢の人々が集まっていた。
数台のテレビカメラまで来ている。
この小さな町の、久しぶりに明るい出来事を記録しようというのだろう。
その人垣の中心に、オットーとミス・タチカワが立っていた。
オットーの少し緊張した横顔を見て、ケンジは思わず笑った。
普段は白衣姿で、研究所の中を偉そうに歩き回っている男が、今日ばかりは立派な紳士に見える。
隣にはウェディングドレス姿のタチカワ。
あの看護婦長も、黙って立っていればなかなかのものだった。
リプリーの祝詞が始まった。
ケンジはエミリーと並んで立ちながら、少し心配になった。
なぜこの男に祝詞を頼んだのだろう。
殺人犯を追い詰めることなら得意だろうが、大勢の人間の前で、めでたいことを喋っている姿など見たことがない。
リプリーは胸ポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
広げた。
しばらく眺めた。
裏返した。
また眺めた。
「字が小さすぎるな」
ざわざわしていた参列者が静かになった。
「ええ……」
リプリーは咳払いをした。
「本日は、お日柄もよく……」
空を見上げた。
「まあ、晴れてるから、いいんだろう」
何人かが笑った。
オットーは嫌な顔をした。
「フレデリック・オットー博士と……」
リプリーは花嫁を見た。
「タチカワさん」
「アケミよ」
花嫁本人から訂正が入った。
「そう。アケミさん。この二人が結婚することになった」
それは全員が知っていた。
「俺はオットーとは長い付き合いだ。あんまりいい付き合いじゃなかったが」
「おい」
オットーが小声で言った。
「黙ってろ。今、俺が喋ってるんだ」
結婚式で新郎を黙らせる祝辞というものを、ケンジは初めて見た。
リプリーは再び紙を見た。
「ええ……夫婦というものは……」
止まった。
しばらく待った。
まだ止まっている。
「何だ?」
オットーが訊いた。
「この先が分からん」
「自分で書いたんじゃないのか」
「昨日書いたんだ。昨日の俺に訊け」
今度はかなり大きな笑いが起こった。
リプリーは腹立たしそうに紙を折り畳んだ。
「もういい。要するにだ」
ようやく顔を上げた。
「オットー。あんたはいろいろあった。奥さんを亡くしたり、ハエに襲われたり、頭がおかしくなりかけたりした」
「最後の二つは結婚式で言うことか?」
「事実だろ」
「続けろ」
「それで、タチカワさん」
「アケミ」
「アケミさん。こいつは面倒臭い男だが、悪い男じゃない。俺が保証する」
そこでリプリーは黙った。
参列者は続きを待った。
十秒ほど経った。
オットーが訊いた。
「終わりか?」
「ああ」
「それだけか?」
「俺に何を期待してたんだ」
しばらく沈黙があった。
やがて、誰かが拍手した。
それにつられるように、庭いっぱいに拍手が広がった。
リプリーは自分でもよく分からない顔をして、一礼した。
ケンジは思った。
たぶん、これでいいのだ。
少なくとも、リプリーが「科学と医療の美しい融合」などと言い出すより、はるかに信用できる。
拍手が沸き起こった。
ケンジも拍手をした。
しかし、その胸の中に、ふと不安が広がった。
待てよ。
この二人が結婚するということは……。
ミス・タチカワは、ここで暮らすのか?
だとすれば、あの有名なスヌーピーコレクションも一緒にやって来るのではないか。
オットーのパジャマ。
ガウン。
コーヒーカップ。
この調子で増殖したら、そのうち研究所のカーテンからトイレブラシまで、あの犬に占領される。
「クソ。この研究所がスヌーピーだらけになってしまうのかよ」
思わず声に出た。
エミリーが首を傾げた。
「何よ、そのスヌーピーって?」
「ああ、なんでもない」
祝詞が終わるや否や、ケンジはリプリーを捕まえた。
「ちょっと、リプリーさん」
「なんだ、ケンジ。せっかくの結婚式に、実験に失敗したような顔をして」
「ミス・タチカワがここで暮らすって、本当なのかい?」
リプリーは一瞬、言葉に詰まった。
そしてケンジの顔を見た。
どうやら、この男も同じことを考えていたらしい。
「まあ、その辺は夫婦の問題だからな」
「ここは研究所ですよ」
「知ってる」
「スヌーピー研究所じゃない」
「それも知ってる」
その時、ケンジの頭に名案が浮かんだ。
彼は新郎新婦の前へ進み出ると、できる限り爽やかな笑顔を作った。
「所長。本当におめでとうございます」
「ああ。ありがとう、ケンジ」
花嫁姿のミス・タチカワは、まるで白鳥のように優雅だった。
いやあ、馬子にも衣装。
七面鳥にもウェディングドレスだ。
「ケンジさんも研究所で働くのね。これからはよろしくお願いします」
タチカワは微笑んだ。
これから。
その一言に、ケンジの背筋が凍った。
やっぱり来るんだ。
「そうだ、ミス・タチカワ」
ケンジは言った。
「ウインドベルの総合病院では、あなたのような経験豊富な看護婦長を探しているそうですよ」
タチカワの笑顔が消えた。
「あの、私はもう……」
すると、オットーが横から口を挟んだ。
「それはいい話じゃないか」
ケンジは驚いた。
所長まで乗ってきた。
「君が良ければだが、アケミ。君の二十年のキャリアは世の中の宝だよ。多くの患者が、君のような優秀なナースを必要としている」
タチカワの目に、みるみる涙が浮かんだ。
ケンジは感動したのだと思った。
違った。
「あなたたち……」
声が震えている。
「私がそんなに邪魔なの?」
辺りが静まり返った。
テレビカメラが一斉に三人へ向けられた。
「違う!」
オットーが慌てた。
「私はただ、君の能力を活かしてほしいと……」
「私はあなたと一緒に暮らしたいだけなのに!」
タチカワの叫びが、春の空に響いた。
オットーは固まった。
ケンジも固まった。
少し離れたところで、リプリーだけが笑いをこらえていた。
「ケンジ」
オットーが低い声で言った。
「はい」
「君は明日から事務員だったな」
「はい」
「最初の仕事を言っておく」
嫌な予感がした。
「何でしょう」
「ウインドベル総合病院の話を取り消してこい」
「僕がですか?」
「君が言い出したんだろう」
「所長だって賛成したじゃないですか!」
「私は今日、結婚したばかりなんだぞ!」
「僕だって今日、まだ正式には働いてませんよ!」
「もう働いている!」
「そんな無茶な!」
とうとうリプリーが吹き出した。
エミリーも笑っている。
集まった人々には何が起きているのか分からなかったが、やがてあちこちから笑い声が起こった。
タチカワだけは笑っていなかった。
オットーは困り果てた顔で、花嫁をなだめている。
白衣の研究者と、ウェディングドレスの看護婦長。
どう考えても、お似合いとは言い難い二人だった。
それでも、たぶん何とかなるのだろう。
サムとリンダだって、何とかなったのだから。
春の風が吹いた。
満開のチェリー・ブラッサムから花びらが舞い落ちる。
研究所の向こうでは、教会の鐘が鳴っていた。
何も知らない鐘だけが、いつまでも二人を祝福していた。
ネクロバズとむくつけき勇者たち 終わり

