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通路に出た瞬間、背後のドアが閉まりかけるより早く、誰かに腕を掴まれた。
見知らぬ若者だった。僕と同じくらいの背丈で、目は鋭く、動きは早かった。
彼は焦るように手話を使って尋ねてきた。
〈ここで何をしていた〉
威嚇するような、荒々しい手の動きだった。僕は落ち着き払って、わざとゆっくり手話を返した。
〈今、帰るところさ。扉が開いてたから、ちょっと中を覗いただけ。興味本位でね〉
手話での返答を期待していなかったのだろう、彼は虚を突かれたような顔をしていた。
〈名前を教えろ〉
その口の動きから、彼が話せないろう者だとすぐに分かった。声が出せるなら、とっくに怒鳴られているはずだ。
名前なんか教えるもんか。僕も手話で返す。
〈スマホなら、返しておいたよ。キミのだったんだろ?〉
彼はちらりとテーブルを見やったが、すぐに視線を戻し、さらに手話で問い詰めてきた。
〈ここで話を聞いていたんだろ〉
ポケットから何かを取り出し、無理やり僕の手に押しつける。小さく、硬い感触。
僕はとっさに手を振り払った。
〈僕もキミと同じ難聴だ。隣の部屋の声なんて聞こえるもんか〉
それでも彼は食い下がる。僕は一歩引いて言った。
〈待ってくれ。こっちから話したいことがある〉
しかし若者は眉間に深い皺を寄せて、じりじりと詰め寄ってきた。
この顔つきは、ただの問いただしではない。何かを背負っている。
僕は両手を広げ、彼との距離を取った。
〈悪いけど、もう行くよ。黙って入ったのは謝る。誓ってもいいが、何も盗んでない〉
そう言い捨てて、彼の横をすり抜ける。
話を聞いている余裕なんてなかった。今はとにかくここを離れたい。それだけだった。
なるべく足音を立てず、冷静を装いながら建物を出る。
振り返ると、若者は開け放たれたドアの前で動かずにいた。
彼は繰り返し手話で訴えてくる。
〈待ってくれ。これは大事な話なんだ〉
僕は目を合わせず、片手を上げて素っ気なく別れを告げた。
そのまま暗闇を歩く。来たときより、闇はずっと濃くなっていた。
寮を目指して進む途中、ふと気配に気づいた。
背後に、何かがついてくる。
しかし誰の姿も見えない。
夜空をふり返ると、黒塗りのドローンが無音のまま浮かんでいる。
実際は音を立てているのだろうが、僕の耳には何も聞こえない。
以前この地区を訪れたときも、同じものを見た。
誰が、こんな時間に。なぜ。
まさか……僕を追って?
防犯用? 防火システム? いや、それだけじゃないような気がした。
僕は平静を装い、何も気づいていないふりで歩き続けた。

ドローンは低空で、明らかに僕の後をつけてきた。
風が背中をなで、電線が微かに揺れた。生垣の枝もそよぐ。
僕にはプロペラの音は聞こえない。けれど、もし聞こえるなら──耳障りなほど響いているに違いない。
寮の前に着いた時、ドローンは進路を変えず、そのまま闇夜に溶け込んでいた。
僕を追っていたわけじゃないのか?
建物の二階から、数人が顔を出していた。どうやら彼らも気になったらしかった。
玄関に入ると、平石が駆け寄ってきた。
〈どこ行ってた?部屋にいないから心配した〉
〈ちょっと散歩。食後の腹ごなしさ〉僕は軽く手話で返す。〈あれ、何なんだろう〉と夜空を指さす。
〈最近よく見るけど、誰が飛ばしてるのか分からない〉平石も不思議そうに言った。
〈まだ上にいる〉
〈ああ、いるな〉
僕たちの会話をよそに、女性たちが数人、慌ただしく玄関に集まってきた。それぞれサンダルをつっかけ、外へ出ていく。
二階にいた彼女たちだ。
ドローンを指さしながら、
〈ああいうのって石投げて落としたらダメなのかしら〉
と手話で話している。
手話だから何を言ってるのか、すぐ分かる。
〈彼女たち、石を投げるってさ〉平石が笑う。
〈猿みたいだな〉僕も苦笑して、両手を振って警告する。〈やめとけって〉
しばらくして、ドローンは急旋回し、静かに別のエリアへと移動していった。
やがて、姿も見えなくなった。
女性たちは寮の中へ戻り、夜の通りには静けさが戻った。
平石がぽつりと言った。
〈あんなの、奄美大島には無かったな〉
〈熊本にも無かったよ〉
僕も頷いた。
つづく
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