世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

サイレント・レジスタンス 14 静かな崩壊

サイレント・レジスタンス 14 静かな崩壊

第14話 静かな崩壊


 食事スペースでは、午後のレクリエーションの準備が始まっていた。


 僕が現れると、そこにいたスタッフたちの表情がぱっと明るくなった。外の騒ぎに怯えていたのだろう。僕の無事な姿を見て、明らかに安堵していた。


 近くにいた女性スタッフに「遅れてすみません」と詫びると、彼女は軽く頷いた。


 僕は車椅子を押して、お年寄りの個室へ向かった。


 頭の中は、さっき見た光景でいっぱいだった。


 警察を呼んで事態を収拾してもらう――そんな段階ではない。騒動を起こしているのが、その警察なのだ。しかも自衛隊まで一緒になっている。


 いったい誰に助けを求めればいい?


 消防署か?


 いや、そんな問題でもない。


 それより船橋さんはどこへ行ったんだろう。


 公民館から逃げ出したのは間違いない。ひょっとすると、この施設に逃げ込んでいるのかもしれない。


 そう考えると、武装警官たちが施設内を歩き回っている理由も分かる。


 船橋を探しているのか。


「さっきの音、凄かったね。何があったの?」


 個室に着くと、小柄な老女がベッドに腰掛けて待っていた。


「音?」


「ほら、パンパンパンって鳴ってたじゃない」


「ああ、そんなに大きな音でしたか」


 何のことかは想像できたが、僕は曖昧に答えた。


「僕は耳が悪いので、あまり聞こえなかったんです。鳥でも追い払っていたんじゃないですか」


「きっとカラスね」


「そう、いたずらカラスじゃないですか。ホールにおやつが用意してありますよ」


「私、モナカがいいの。いつも無くなっちゃって困るの」


「それじゃ、早く取りに行きましょう」


 老女を車椅子に移し、食事スペースへ向かった。


 途中の廊下で、武装警官とすれ違った。


 まだいる。


 警官はこちらを一瞥しただけで、そのまま通り過ぎていった。


 しばらく進むと、老女が急に振り返った。


「また音がしたわ」


 僕には聞こえなかった。


「パンパンって音ですか?」


「いいえ。何かが倒れるような音。外からよ。工事でもやっているのかしら」


 工事?


 確かに、足元にかすかな振動を感じる。


 食事スペースへ戻ると、施設内の雰囲気が一変していた。


 介護スタッフたちは窓の外を見ながら棒立ちになっている。車椅子や椅子に座った老人たちも、呆然と外を見ていた。


 妙に明るい。


 窓の外にあった建物がなくなり、視界が開けているのだ。


 そこへ黄色いショベルカーのアームが現れた。


 振り上げられ、落ちる。


 そのたびに床から振動が伝わってきた。


 老女が言っていたのは、これだったのか。


 施設周辺の建物が壊されている。


 重機の周囲では、白いヘルメットを被った男たちが動き回っていた。目元だけが見えるフェイスガードをつけている者もいる。


 警官なのか、自衛隊員なのか。


 それとも普通の作業員なのか。


 もう見分けがつかなかった。


 何の予告もなかった。


 少なくとも僕は、こんな工事が始まるなんて聞いていない。


「何が起こったのかしら?」


 近くにいた女性スタッフが僕に訊いた。


「分かりません。急な取り壊し……なんですかね」


 自分で言っていても意味が分からなかった。


「あなたが住んでいる寮は大丈夫なの?」


「えっ、寮?」


「近くにあるじゃない。何十台も重機が来て、この辺りの建物を壊してるのよ」


「何で?」


「分からないわ」


 そこへリーダー格の女性スタッフがやってきた。


「さっき事務長から指示があってね。お年寄りを自室から出さないようにって。せっかく連れてきたのに悪いけど、また部屋に連れていってちょうだい」


 僕は老女を見る。


 彼女は不満そうに、お茶菓子の並んだテーブルを見つめていた。


 モナカ。


 そうだった。


 僕は皿からモナカを五個取って、ユニフォームのポケットに突っ込んだ。


 個室へ戻り、老女をベッドに移す。


 そして五個のモナカを差し出した。


「あら、ありがとう。いったい何があったの?」


「僕にも分かりません。今日はお部屋で過ごしてください」


 老女は両手に持ったモナカをしばらく見つめていた。


 僕が部屋を出ようとすると、手招きする。


「五個も食べられないわ。あなたも食べなさい」


 三個、僕の手に押し返してきた。


 僕は黙ってポケットにしまった。


「僕は他に行かなきゃ。何かあったらコールで呼んでくださいね」


 食事スペースへ戻り、さっきの女性スタッフに声をかけた。


「ちょっと寮の様子を見てきたいんですが」


 彼女は窓の外を見てから、僕に向き直った。


「いいわ。気をつけてね」


 職員出入口へ向かい、シューズを履き替えて外へ出た。


 いつもなら、すぐ目の前に二階建ての家が見える。


 生垣は残っていた。


 だが、その向こうにあるはずの家は、半分なくなっていた。


 一階部分にショベルカーが突っ込んでいる。


 住民らしい男性がショベルカーによじ登り、運転席の窓を激しく叩いていた。


 何か叫んでいる。


 僕には聞こえない。


 でも、何を言っているのかは分かった。


 やめてくれ。


 たぶん、それだけだ。


 瓦礫のそばでは、家族らしい人たちが泣いていた。


 それでもショベルカーは止まらない。


 無表情な作業員が操作を続け、家の壁を削り取っていく。


 体格のいい若い男が駆け寄ってきた。


 ショベルカーにしがみついていた男性を引きずり下ろす。


 男性は抵抗して男に体当たりしたが、簡単に跳ね返された。


 さらに数人が集まってくる。


 男性が地面に倒された。


 その周囲で何本もの腕が激しく動いた。


 殴っている。


 僕には、その音も怒鳴り声も聞こえなかった。


 ただ、人が人を殴っている光景だけが見えた。


 上空には何機ものドローンが滞空している。


 ひょっとすると、あいつらが監視しているのか。


 地区の隅々までカメラで見張って、抵抗する人間を見つけている?


 でも、何のために?


 道路へ出た。


 そこで初めて、僕は被害の大きさを知った。


 壊されているのは一軒や二軒ではない。


 地区のあちこちで住宅が崩れ、瓦礫の山ができている。


 まるで直下型地震の直後だった。


 ただ一つ違うのは、これは災害ではないということだ。


 誰かが意図的に壊している。


 人々は道路脇に立ち尽くしていた。


 怒っている者。


 泣いている者。


 何が起きたのか理解できないまま、瓦礫を見つめている者。


 そして僕の暮らす寮も、例外ではなかった。


 ほとんど壊れていた。


 寮の住人たちが、瓦礫の前で肩を寄せ合っている。


 バッグやキャリーケースを抱えていた。


 部屋から持ち出せるものだけを持って、逃げ出したのだろう。


 顔見知りの住人に近づいた。


 誰も何も言わない。


 手も動かない。


 僕も何を言えばいいのか分からなかった。


 寮は、巨大な何かに食いちぎられたように半分が消えていた。


 僕の部屋があった二階を見る。


 そこにはもう、部屋らしいものは残っていなかった。


 僕はしばらく、その場に立っていた。


 他の住人たちと同じように、ただ瓦礫を見ていた。


 逃げた方がいい。


 そんな考えが、ようやく頭に浮かんだ。


 でも――。


 どこへ?


 僕はこの土地に来て、まだ一か月しか経っていない。


 逃げろと言われても、どこへ逃げればいいのか分からなかった。

つづく

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