長い間、身体の震えが止まらなかった。
逃げ続けた末に辿り着いたのは、小さな公園だった。
時刻は午後二時十分を少し過ぎたところ。
晴れているのに、公園には僕以外誰もいない。
滑り台とブランコ、それに小さなトイレがあるだけだった。
初めて来る場所だ。
介護施設の周辺で起きていた破壊は、どうやらあの地区だけではないらしい。
施設から五ブロックほど走ってきたが、その間も壊された建物が途切れることはなかった。
ようやく普通の街並みに辿り着いた時には、疲労は限界だった。
僕はベンチに腰を下ろした。
ここまで来る途中、警察官、自衛隊員、救急隊員、解体作業員らしき連中を何度も見かけた。
なるべく近づかず、声を出さずに通り過ぎた。
少なくとも、こちらが声を出さなければ追ってはこない。
それだけは分かってきた。
リュックからスマートフォンを取り出す。
平石からメッセージが八通も届いていた。
《無事ですか?》
《連絡ください》
今は詳しく説明する気力がない。
《無事です。また連絡します》
それだけ返した。
YouTubeを開き、「警察 自衛隊 暴力」と検索してみる。
大量の動画が出てきた。
住宅が壊される映像。警察官が市民に殴りかかる映像。血まみれの人が道路に倒れている映像。
どうやら、あの異常事態はネット上でもかなり知られ始めているらしい。
もっとも、こういう動画はすぐに削除されるかもしれない。
画面をスクロールしていると、見覚えのあるサムネイルが目に入った。
急ごしらえのスタジオ。
手話を使う女性キャスター。
間違いない。
あの放送だ。
僕はチャンネルを開き、動画を再生した。
〈これは異星人による侵略行為です。警察官、軍人など武力を行使できる組織を重点的にウイルス感染させ、一般市民を捕食しようとしています〉
画面の女性が真剣な表情で手を動かしている。
〈感染した個体は、音、特に人間の声に反応します。決して声を出さないでください〉
やっぱり声だ。
声を出しちゃいけない。
僕はスマートフォンを閉じた。
急に身体がふらついた。
そういえば、ほとんど何も食べていない。
ここへ来る途中にコンビニがあったはずだ。
車も停まっていたし、人影も見えた。
あそこなら、まだ普通に営業しているかもしれない。
駄目なら、また逃げればいい。
僕は公園を出た。
元来た通りを歩いていると、犬を散歩させる老人とすれ違った。
何事もなかったような光景だ。
この辺りには、まだ破壊の手が及んでいないらしい。
住宅も店舗も無傷だった。
重機や装甲車も見当たらない。
普通の街だ。
それだけで、妙に安心した。
商店街らしい通りへ入る。
人とすれ違うことも増えた。
注意して顔を見る。
赤い目。
生気のない表情。
妙な動き。
そんなものは見当たらなかった。
五分ほど歩いて、目当てのコンビニに着いた。
店内には三人の客と、二人の店員がいた。
僕はホットドッグとアンパン、紙パックのカフェラテをカゴに入れ、レジへ向かった。
レジには、ひょろっとした若い男が立っていた。
無言のまま商品をスキャンしていく。
「袋もください」
僕が言うと、青年は首を傾げた。
レジの脇に小さなプレートがある。
《耳の聴こえない店員が対応しています。ゆっくりお話しになるか、筆談でお願いします》
ああ、そうか。
僕は試しに手を動かした。
〈袋、必要〉
青年の顔がぱっと明るくなった。
頷いて、商品を袋に入れてくれる。
会計を済ませたあと、僕はブックコーナーへ移動した。
少し休んでから食べようと思った。
何気なくレジを見る。
さっきまで店内にいた客が、青年と手話で話していた。
買い物のやり取りにしては長い。
ろう者がよく利用する店なのだろうか。
僕は少し近づいた。
何を話しているのか気になった。
その時、足元から重い振動が伝わってきた。
同時に、店の外を黄色い重機が横切った。
一台。
続いてもう一台。
さらに、その後ろをパトカーが走っていく。
嫌な予感がした。
店内の空気が変わった。
レジの青年が素早く手を動かす。
〈奴らが来た〉
店にいた客たちの表情が引き締まった。
通りを警官たちが走っていく。
二人がこちらを向いた。
そのままコンビニへ入ってくる。
すでに警棒を抜いていた。
普通の巡回じゃない。
警官たちの目はひどく充血していた。
口元から涎を垂らしている。
まるで狂犬だ。
ところが、店内にいたろう者たちは驚くほど冷静だった。
レジの青年を含め、五人が一定の距離を取りながら警官たちを囲む。
全員が手に青と白の拳銃を持っていた。
あの銃だ。
青年が構えた。
引き金を引く。
銃身が白く発光した。
警官の身体が前のめりに崩れ、床へ倒れた。
すぐに別の客も銃を撃った。
もう一人の警官も、その場に倒れ込む。
硝煙はない。
血も出ていない。
五人は慣れた様子で銃を下ろした。
青年が僕を見る。
〈大丈夫。気を失ってるだけだ〉
倒れた二人を見る。
うつ伏せのまま動かないが、背中はかすかに上下していた。
青年が僕を手招きした。
〈店を閉める。君も出て〉
五人がかりで警官二人を店の外へ引きずり出し、路肩へ移動させる。
そのまま店のシャッターが下ろされた。
〈君も早くこの地区から離れた方がいい〉
青年が手話で言った。
その言葉が終わるより先に、道路の向こうで人が倒れた。
自衛官らしい男が、老人に馬乗りになって首を絞めている。
青年は迷わなかった。
近づき、至近距離から青白い銃を撃つ。
男の身体が脱力し、老人の上に崩れ落ちた。
青年は倒れた男を押し退け、老人を助け起こす。
老人は大きく息をしながら、路地へ逃げていった。
どうやら無事らしい。
僕はしばらく、コンビニにいた五人の近くを歩いた。
一人になるより安全だと思ったからだ。
しかし彼らは、同じ場所へ向かっているわけではなかった。
次第に別々の方向へ散っていく。
気がつくと、僕はまた一人になっていた。
まあ、当たり前か。
僕の護衛を引き受けたわけじゃない。
さっきの公園まで戻ってみた。
わずか一時間ほどで、景色が変わっていた。
壊された壁。
崩れ落ちた屋根。
粉々になった窓ガラス。
重機が住宅を破壊している。
戦場の跡みたいだった。
僕は歩きながら、コンビニで会った五人を探した。
焦っていたせいか、気づかないうちに独り言を漏らしていたらしい。
しまった。
そう思った時には遅かった。
人影が四つ。
自衛官が二人。
警官が二人。
いつの間にか、僕を取り囲んでいた。
全員がこちらを見ている。
声を拾われた。
クソッ。
僕は何もできないぞ。
リュックを降ろし、胸の前で構えた。
盾のつもりだった。
中腰になり、彼らの間をすり抜けようとする。
警官の手が肩へ伸びた。
僕はしゃがみ込み、その手を振り払った。
走る。
とにかく走った。
振り返らなくても、追ってきているのは分かる。
すぐ背後に気配がある。
空腹で足が重い。
そういえば、コンビニで買ったパンもまだ食べていない。
リュックの中だ。
その時、別のものを思い出した。
銃。
僕も持っている。
走りながらファスナーを開け、手を突っ込む。
ホットドッグとアンパンの柔らかい感触。
その下に、硬いものがあった。
掴み出す。
青と白の拳銃。
使えるのか?
分からない。
それでも、さっきコンビニで同じ銃が警官を倒すところを見た。
僕はグリップを握った。
軽く引き金に触れる。
銃身が白く光った。
動いてる。
僕は走るのを止めた。
振り返る。
すぐそこまで警官が迫っている。
両手で銃を構え、一番近い警官へ向けた。
引き金を引く。
白い閃光が走った。
反動はほとんどない。
だが、警官は胸を押さえるようにして仰向けに倒れた。
コンビニで見たのと同じだ。
次だ。
銃を構え直そうとした瞬間、視界から敵が消えた。
どこだ?
身体の横から衝撃を受けた。
誰かが体当たりしてきた。
警官だった。
地面に倒れそうになりながら、僕はどうにか踏ん張った。
警官が僕の持つ銃を見た。
「その銃、どこで手に入れた」
生臭い息が顔にかかる。
「誕生日にバアちゃんにもらったんだよ」
自分でも、よくそんな嘘が出たと思う。
警官の目は真っ赤だった。
少し離れたところに、自衛官が二人いる。
警官が手を差し出した。
「銃を寄こせ。さもなくば殺す」
僕は息を整えながら銃を向けた。
「『さもなくば』はいらないだろ。どうせ殺すつもりなんだから」
警官の顔が歪んだ。
その手が腰の拳銃へ伸びる。
僕は待たなかった。
引き金を引く。
白い光。
警官はもんどり打って倒れた。
大柄な自衛官が飛び込んできた。
拳が僕の顔を狙う。
身体をひねって避け、銃を男の胴体へ向けた。
撃つ。
男の身体が一瞬硬直した。
だが倒れない。
もう一度。
二発目を受けて、ようやく膝を折った。
最後に残った自衛官は、倒れた警官の腰から拳銃を奪おうとしていた。
撃たれる前に撃つしかない。
僕は丸まった背中へ銃を向けた。
引き金を引く。
男はその場に倒れた。
しばらく苦しそうに身体を動かしていたが、やがて動かなくなった。
呼吸はしている。
気を失っただけらしい。
僕は荒い息を吐いた。
四人とも倒れている。
何だ、この銃。
銃弾が出た感触はなかった。
血も出ていない。
衝撃波?
電気?
まったく分からない。
自分の手に撃って試してみようかと思った。
やめた。
手がなくなったら困る。
ふと、上空を見た。
黒いドローンがいた。
またか。
僕たちの様子を監視しているようにしか見えない。
五メートルほど上空で、ほとんど動かずに浮いている。
鳥よりは当てやすそうだ。
僕は銃を向けた。
撃つ。
ドローンの機体が揺れた。
もう一度狙おうとした瞬間、機体が大きく傾いた。
そのまま落ちていく。
路面へ叩きつけられ、壊れた。
この銃はドローンにも効くらしい。
その場を離れようとした時だった。
背後で何かが動いた。
倒れていた警官の一人が目を開けていた。
僕は銃を向けたまま近づいた。
警官は仰向けになり、ぼんやりと僕を見ている。
「殺すなら、早くやれよ」
かすれた声だった。
「殺さないよ」
警官は笑ったようにも見えた。
「殺さないと後悔するぞ」
僕は黙っていた。
「お前が善人かどうかなんて関係ない。俺たちは……殺すことしかできない」
男の唇が震えている。
目は異様なほど赤かった。
「早くしろ……俺が俺じゃなくなる」
何だ?
警官が身体を起こした。
僕は思わず一歩下がった。
さっきまでとは違う。
腕。
肩。
首。
筋肉が異様に盛り上がっている。
身体そのものが膨らんでいるように見えた。
男は苦しそうに身体を震わせた。
吐く息がひどく生臭い。
僕はさらに後退し、銃を構えた。
「ウォオオオオオ!」
男が吠えた。
もう人間の声には聞こえなかった。
突進してくる。
肩を掴まれた。
ものすごい力だ。
身体ごと押し倒されそうになる。
男の手が異様に熱い。
顔が迫る。
「オレは……お前を食う」
口が開いた。
赤く染まった歯が見えた。
冗談じゃない。
僕は男の胸へ銃口を押し当てた。
引き金を引く。
白い光が走った。
男の身体から一気に力が抜けた。
僕の肩を掴んでいた手が落ちる。
男は膝から崩れ、そのまま地面へ倒れた。
動かない。
僕は息を止めたまま、その身体を見つめていた。
胸が上下していない。
死んだのか。
僕が殺した。
一瞬、頭が真っ白になった。
さっきまで警官だった男だ。
でも、あのままなら僕が殺されていた。
手の中の青白い銃を見る。
何なんだ、こいつは。
倒れている残りの三人へ目を向けた。
また起き上がるかもしれない。
しかも、さっきの男みたいな姿になって。
ここにいるのは危険だ。
僕はリュックを背負い直した。
元来た方向とは逆へ走り出す。
薄暗い空の向こうに、街の明かりが見えた。
あそこまで行けば、まだ安全な場所があるかもしれない。
僕は銃を握ったまま、ひたすら走った。
つづく
