世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

故郷へのカウントダウン エコー・オブ・アキュラ 第2章「翼の強奪」 7.砂漠へ

故郷へのカウントダウン エコー・オブ・アキュラ 第2章「翼の強奪」 7.砂漠へ

7.砂漠へ

 三日後。

 オレゴンの朝は、いつもと変わらず静かだった。

 牛たちは草を食み、風車はゆっくりと回っている。

 それでもハルトには、世界そのものが少し違って見えた。

 今日、自分は牧場を離れる。

 しかも行き先は、宇宙への入口だった。

 荷物は驚くほど少ない。

 着替えが数枚。

 家族三人で撮った古い写真。

 そして、牛舎で書き留めた、あのリズムのメモ。

 それだけだった。

 玄関を出ると、レイはもうトラックの横に立っていた。

 帽子を目深にかぶり、荷台を点検している。

「忘れ物はないか」

「うん」

「怖くなったら、今なら戻れる」

 ハルトは首を振った。

「行く」

 レイは何も言わず、小さく頷いた。

「ハルト」

 後ろから呼ばれた。

 振り返ると、由里子が玄関に立っていた。

 何かを手にしている。

「これ」

 差し出されたのは、小さな布袋だった。

「何?」

「お守り」

 ハルトは受け取った。

 軽い。

 中に何が入っているのか分からない。

「開けてもいい?」

「いいけど、たいしたものじゃないわよ」

 袋の中には、小さな石が一つ入っていた。

 赤茶けた、どこにでもありそうな石だった。

「これ……?」

「アキュラの石」

 ハルトは母の顔を見た。

「え?」

「十年前、持って帰ってきたの」

 由里子はそれだけ言った。

 ハルトは手のひらの石を見る。

 初めて見るはずなのに、不思議な気がした。

 これから自分が向かう場所から、

 十年前に母が持ち帰ったもの。

「母さんも、本当に行ったんだね」

 由里子は少し笑った。

「だから言ったでしょう」

「ほとんど話してくれなかったから」

「話すと長いのよ」

 少し離れたところで、レイが言った。

「長いどころじゃない」

 由里子が振り返る。

「誰のせいよ」

 レイは黙った。

 ハルトは思わず笑った。

 由里子も少しだけ笑った。

 けれど、その笑顔はすぐに消えた。

「ハルト」

「うん」

「なくさないでね」

 ハルトは石を布袋へ戻した。

「これ?」

「それも」

 由里子は言った。

 そして、ほんの少し間を置いた。

「あなた自身も」

 ハルトは母を見た。

 由里子は、それ以上何も言わなかった。

「うん」

 ハルトは布袋をポケットにしまった。

「ちゃんと持って帰る」

 そのとき、一台の大型SUVが砂煙を上げて牧場へ入ってきた。

 運転席から降りたのは緒方だった。

 相変わらず作業着姿。

 白髪は風に乱れているが、その立ち姿には年齢を感じさせない力強さがあった。

「準備はできたか」

「いつでも」

 レイが答える。

 緒方はハルトを見る。

「お前がハルトか」

「はい」

「ユキオに少し似てる」

 ハルトは驚いた。

「会ったことあるんですか」

「ある」

 緒方は短く答えた。

「強い子だった」

 それ以上は語らない。

 だが、その一言だけで十分だった。

 脇田のレンタカーも続いて到着する。

 窓を開けるなり叫んだ。

「六時間運転するより、飛行機三本乗る方が楽だったぞ!」

 緒方が笑う。

「まだ若い証拠だ」

「どこがだ」

 重苦しかった空気が少しだけ和らいだ。

 しかし緒方の表情はすぐに引き締まる。

「時間がない」

 端末を取り出し、三人へ向ける。

 画面には衛星写真が映っていた。

 砂漠の真ん中。

 巨大な白いドーム施設。

「ここだ」

 ハルトは思わず息をのむ。

「研究所……?」

「表向きはな」

 緒方が静かに言う。

「正式名称は宇宙推進技術保管施設」

「だが俺たちは、昔から別の名前で呼んでいた」

 レイが小さく笑う。

「格納庫だ」

 緒方は続ける。

「十年前の件以来、警備は何倍にも強化された」

「だから簡単には入れん」

 ハルトの表情が曇る。

「じゃあ……」

「安心しろ」

 緒方は端末をしまった。

「何も準備せずに、お前たちを送り出すほど年寄りじゃない」

 脇田がニヤリと笑う。

「つまり?」

「施設責任者には、俺から話を通してある」

 レイが眉を上げる。

「通した?」

「正確には」

 緒方は少しだけ口元を緩めた。

「“昔の借り”を返してもらう」

 誰も詳しくは聞かなかった。

 聞かなくても分かった。

 十年前の出来事は、終わっていなかったのだ。

 やがて、出発の時間になった。

 レイが運転席へ向かおうとする。

「レイ」

 由里子が呼び止めた。

 レイは振り返った。

 二人はしばらく何も言わなかった。

 ハルトには、その沈黙の意味が分からなかった。

 十年前にも、二人の間にはこんな時間があったのかもしれない。

「じゃあ」

 レイが言った。

「行ってくる」

 由里子は頷いた。

「うん」

 それだけだった。

 レイも、それ以上は言わなかった。

 車に乗り込む。

 ハルトも後部座席へ乗ろうとして、もう一度振り返った。

 由里子はまだ玄関の前に立っていた。

「母さん!」

 由里子が顔を上げる。

「行ってきます!」

 少し間があった。

 それから由里子は、大きく手を振った。

「行ってらっしゃい!」

 車は牧場を離れる。

 窓の外で、由里子の姿が小さくなっていく。

 その向こうで、風車がゆっくりと回っていた。

 ハルトは振り返った。

 この景色を見るのは、しばらく最後になる。

 胸の奥が少しだけ締めつけられる。

 ポケットの上から、赤い石に触れた。

 その肩に、レイが静かに手を置いた。

「帰ってくる」

 短い一言だった。

 ハルトは父を見た。

 その言葉が自分に向けられたものなのか、

 それとも、遠ざかっていく牧場に向けられたものなのか、

 分からなかった。

 それだけで、不思議と不安が消えた。

 車は州境を越え、乾いた大地へ入っていく。

 草原はいつしか赤茶けた岩場へ変わり、地平線だけがどこまでも続いていた。

 ハルトは窓の外を見つめながら、小さくつぶやく。

「本当に宇宙へ行くんだ……」

 脇田が前を向いたまま笑う。

「いや」

「まずは、十年前の続きを始める」

 誰もその言葉を否定しなかった。

 つづく

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