3 機長はどこ行った?
コクピットは出航前だというのに、やけに騒がしかった。
深くて重い鼻息が、まるでエンジンの音のように室内にとどろいている。
時折、鼻をすする音や咳払いの音が混ざり合い、コクピットは乱雑な雰囲気に包まれていた。
小太りのパーサーが、ドアを蹴破って入ってきた。
「誰だぁ、このいびきは」
「えっ?ヒマなんで寝てんですけど」
右の操縦席から、野太い声が聞こえた。
パイロットは枕代わりのクッションに頭を埋めて、席にごろりと仰向けになっていた。
左の操縦席にもツナギを着たエンジニアが寝ていた。
パーサーは背後に駆け寄り、二人からクッションを取り上げた。
「お前らの仕業か」
「一体、どうしたんで」
「どうしたもこうしたもあるか。 お前らのいびきが場内アナウンスで流れて大騒ぎだよ」
「へぇ?」
彼らは事態がうまく飲み込めず、目をしばたかせキョトンとしていた。
「マイクのスイッチがオンになってんだよ。ゴジラの襲来とか、ガンダムが飛んできただのと、客席はえらい騒ぎだぞ。だいたい出発時刻から、もう10分も経っているのに、何をのんきに寝ているんだ」
クッションを投げ捨てながら、パーサーは副操縦士を怒鳴りつけた。
驚いた彼は、まるで電気を通されたうなぎのように硬直して背筋を伸ばし、浅黒い肌をひきつらせた。
小太りのパーサーは、紺色の上着のポケットに手を突っ込んで、副操縦士とエンジニアの回りをつかつかと歩いた。
「故障でもしたのか?」とエンジニアに訊いた。しかし、エンジニアは首を横に振った。
代わりって副操縦士が答えた。
「違いますよ。あのう、あの人がねぇ、まだ来ないもので。そう、機長の前田さんですけど。オレ一人で船を動かすわけにはいかないし…。全く、どこへ行ってるんでしょうねぇ」
他人ごとのようにしか聞こえてしまう。しかし副操縦士である彼一人では船を動かせないのは事実だ。
パーサーは言った。
「連絡は取れないのか?」
「昨日から何度も電話しているんですが、音沙汰なしで」
「最後にあったのはいつだ」
「おとといのミーティングの時ですよ」
「それなら私も会っている」
パーサーはしばらく考えこんでいたが、何も思いつかなかったらしく
「管制タワーに連絡を入れるんだ。運航断念するか、至急、代わりのパイロットを頼む、とな。 今すぐにだ」
助手は渋々、無線に手を伸ばした。しばらくゴニョゴニョ話した後、絶句していた。
「そうですか、奥さんが。パーサー、ちょっと待って」
パーサーが客室へ戻ろうとすると、副操縦士は慌ててパーサーを引き止めた。
「実は、前田さんの奥さんが…」
副操縦士はきまり悪そうな顔をしていた。
パーサーが彼の横までもどって来ると、少しどもりながら副操縦士は話を始めた。
「実は、前田さんの奥さんが、今朝、陣痛が始まったんですよ。出産予定間近だったんですが、予定より早くなっちゃって。今頃、前田さんは奥さんのそばにいるんでしょうね」
パーサーも絶句した。
「そうか。それは大変だな。ちょっとタイミングが悪すぎたんだな」
パーサーは思わずため息を漏らした。
「でも、それなら連絡くらいしてくれればいいじゃないか。こっちは何も知らないで待ってるんだぞ」
「そうですよね。でも、前田さんはあまり仕事と家庭を混ぜたくないタイプでして。奥さんもそういうところを理解してくれてるみたいで。だから、連絡しなかったんでしょうね」
「理解してくれるというか、遠慮しすぎだと思わんか?これって職務放棄だぞ。そういう事情なら休暇を取ればいいのに」
パーサーはやるせなく周囲を見渡し、やがて苦笑した。
「まあ、それはそれとして。今回のフライトはどうするんだ?」
「ええと、管制タワーに確認したら、代わりのパイロットを探してくれるって言ってました。でも、すぐに見つかるとも限らないし、時間がかかるのかもしれません」
「そうか。じゃあ、ひとまず客席に謝罪するしかないな」
パーサーは深く溜息をついた。
「お客様には大変ご迷惑をおかけします。当旅客船ノーヴァは出航準備中でございます。もうしばらくお待ちくださいませ」
パーサーはマイクを握って客席に向けてアナウンスした。
しかし、その声はやや弱々しく聞こえた。
代役が見つかるという確信がなかったからだ。
アナウンスが終わると、パーサーはとぼとぼと客室に帰っていった。
コクピットでは、エンジニアが副操縦士の話を聞いて驚いていた。
「マジかよ。前田さんの奥さんが出産? それはおめでとうだけどさ」
「おめでとうじゃなくて困ったなぁ。運航中止になる可能性が高いぞ」
副操縦士はいら立ちを隠せなかった。
「ごめんごめん。でも俺らエンジニアには何もできることないし、ここは代わりのパイロットが来るまで待つしかないんじゃないの?」
「そうだけどさ。このままじゃ客席からクレームが来そうだし。運航中止になった場合の対応でも考えとくか」
「対応? 考える? 事実を言えばいいじゃん」
「事実を言えば? お前、バカか? 機長が出産で遅刻してるって言ったらどう思われると思ってんの? それじゃ、会社の信用ガタ落ちだぜ」
「そうか? 俺なら、人間味があっていいと思うけどな」
「人間味の問題じゃなくて、プロ意識の問題だよ」
副操縦士はエンジニアをたしなめた。
エンジニアは肩をすくめた。
「まあまあ、落ち着いて。そんなに怒らなくても。俺も困ってる側の人間だからさ」
「困るのはお前じゃなくて、このオレだ。お前、何でさっきからここで寝てんの?」
「あんたが呼んだんだろ。機長が来ないって」
「ああ、そうだった。そのうち来るだろうという話になって、それから隣で寝ちゃったんだ」
「オレだって整備で疲れてたんだよ。昨日は夜勤だったんだからさ」
「夜勤だったからって、ココで寝てるのはダメだろ。エンジニア室へ戻るべきじゃないの?」
「うるさいなあ。何で起こしてくんないんだよ」
「職務中に寝る怠慢なやつだと呆れてた」
「じゃあ、あんたは寝てていいのかよ。代わりのパイロットが来るまで寝てんのかよ」
「そうだよ。オレはココで寝てていい。パーサーと一緒に客に謝罪してきたらどうだ」
「謝罪? オレが? 何で?」
「何でって、エンジニア室へ戻るには、客室を通るだろ?」
「謝罪って何だよ。あんたは寝てて、オレは謝んの?責任感のない副操縦士だぜ」
「責任感? 確かにオレはそんなものは捨てちまった。お前こそ責任感あんのか?」
「そんなもの搭乗前に売店のゴミ箱に捨ててきた。お前はどこ捨てたんだ?」
「オレは搭乗前にトイレに流してきた。今頃、下水を通って東京湾のどこかに漂っているぜ」
「あんたのクソとともにな」
「おう、クソとともにプーカプカさ」
「はっはっはっ、面白いパイロットだな」
「ふっふっふっ。この船、飛ぶのかな?」
「飛ばねぇだろうな、はっはっは」
「やっぱ、無責任だな、ふっふっふ」
そして、またもパーサーがコクピットのドアを蹴破ってきた。
「やめんかぁ。またマイクが拾っちまってるんだよ。お前たちのクソ漫才を」
パイロットは計器類に目をやった。
「えっ、本当だ。スイッチ切ってなかった」
〈とにかく、は・や・く・き・れ〉
パーサーはマイクに声を拾われないよう、口をパクパクさせた。
エンジニアが手を伸ばして、スイッチを切った。
パーサーは二人をにらみつけると、一言もしゃべらず、客室へ引き返していった。
つづく
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