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急いで決めた転職だったが、新しい職場の就業環境は思っていたよりもきちんとしていることがわかってきた。
高層ビルに囲まれた静かな公園エリアに、その介護施設はひっそりと佇んでいる。
入居者は約百人。自力歩行ができる高齢者もいれば、寝たきりの方もいる。いわゆる介護型老人ホームというやつだ。
食事の時間になると、歩ける高齢者たちはテーブルの並んだ食事スペースまでやってくる。
歩けない方は、スタッフが車椅子で連れてくることになる。
車椅子での移動で済めばまだ楽なのだが、本当に大変なのはそこからだ。食事の介助が必要になる。
僕はご飯をすくったスプーンを、大川さんの口元に運んだ。
「大川さん、もう一口いかがですか?」
「なぜだ?」
「まだ半分しか召し上がってないでしょう」
「もう食わんぞ」
大川さんは鋭い目つきで僕を睨んだ。「あとはキミが食べろ」
「僕は食べませんよ。夕食はちゃんと召し上がっておかないと、朝まで体が持ちませんよ」
「持たなくていい」
「お腹が空いて眠れませんよ」
「眠れなくていい」
僕は諦めて、食器にスプーンを置いた。食べないと言っている以上、無理強いはできない。

そのとき、タイミングよく個室のコールが鳴った。この施設のコールは大音量なので、補聴器をつけている僕にも聞こえる。
「大川さん、僕はちょっと向こうに行きますが、よろしいですか?」
「なぜだ?」
「呼ばれたんです。音が鳴っているでしょう」
「そうか、行きたまえ」
僕は立ち上がり、コールランプが点灯している部屋へと急いだ。
「どうなさいましたか?」
部屋のベッドで、誰かが手招きしている。
「………たの」
「すみません、なんとおっしゃいましたか?」
僕はベッドサイドに近づいた。そこには、ミイラのように痩せこけた老女が横たわっていた。老女はすがるような眼差しで、小さく口を動かす。
「………たのよ」
「申し訳ありません」
情けないことに、補聴器をつけているのだが、彼女の声のボリュームでは僕の耳には届かなかった。
「すみませんね。もう一度おっしゃっていただけますか。僕、耳が遠いもので」
これで聞き取れなければ、他のスタッフを呼ぼう。僕は一縷の望みをかけて耳を澄ませた。
すると老女は突然目を見開き、鼻を膨らませて、大声で叫んだ。
「うんこが出た、と言ってるのよ!」
確かにそんな匂いがしている。僕は慌てて謝った。
「申し訳ありませんでした。やっとわかりました。女性スタッフを呼んできますので、お待ちください」
僕は急いで廊下に出たが、女性スタッフの姿が見当たらない。
部屋に戻り、老女にもう一度告げた。
「女性スタッフを探してきますので、もう少しお待ちください」
老女は不満そうに頷いた。
僕は小走りで食事スペースに向かった。
車椅子の利用者に食事介助をしている女性スタッフを見つける。
「すみません、排泄の対応が必要な方がいらっしゃるのですが」
「ああ、ごめんなさい。今は手が離せないの。食事介助中だから、ノロウイルス感染のリスクもあるし、この方、やっと食べ始めたところなの。あなた今、手が空いているでしょう?」
「でも僕、男性ですし、大丈夫でしょうか」
「お婆ちゃんが了承してくれるなら、お願いします」
僕は急いで部屋に戻り、老女に事情を説明して、自分が対応させてもらってもよいか尋ねた。
老女は恥じらうこともなく「替えてちょうだい」と言った。
オムツ交換は思ったよりもスムーズに終わった。
手指を消毒して食事スペースに戻ると、大川さんの皿はいつの間にか空になっていた。
「ご自分で召し上がったんですか?」
「食べた」大川さんは答えた。「うまかったよ」
「それは良かったです」
食器を片付けた後、大川さんに歯磨きをしてもらい、テレビの置いてあるフロアで他の利用者と一緒にテレビを観た。
しばらくすると、大川さんが眠そうな表情を見せたので、車椅子で個室まで移動し、ベッドに休んでもらった。
つづく
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