研修会場の喧騒を背に、立山は空になったシャンパングラスをウェイターに渡した。
「こっちだ」
開け放たれたドアを抜け、僕と平石はその後についていった。
華やかな会場から一歩出ると、そこは別世界だった。
照明の落とされた長い通路が、どこまでも続いている。
右へ曲がり、左へ曲がり、また右へ。
いったい、どこへ連れていくつもりなんだ。
「会場に戻らなくても大丈夫なんですか?」
僕は前を歩く立山に訊いた。
「ああ、いいんだよ。毎回お決まりの動画を見せられるだけだから」
酔っているらしく、足取りが少し怪しい。
それでも本人は上機嫌だった。
しばらく歩いたところで、立山が急に足を止めた。
「あれ?」
振り返る。
「お前さん方、アプリで入場したのかい?」
「アプリ?」
しまった。
思わず聞き返してしまった。
立山の表情が変わる。
「何だよ。アプリだよ」
スーツの内ポケットからスマートフォンを取り出し、何度か画面を操作した。
「これ」
僕たちに画面を見せる。
見たこともないアプリだった。
「ああ、それです」
僕は即答した。
隣で平石も大きく頷いた。
お前、何も聞こえてないだろ。
「それで入りました」
「へえ」
立山はスマートフォンを見つめた。
「おかしいな。これ、もう使えなくなったって聞いてたんだけど」
まずい。
「使えましたよ」
「まだ使えるのかな」
「全然、大丈夫でした」
何が全然大丈夫なのか、自分でも分からない。
平石を見ると、なぜか満面の笑みを浮かべている。
笑うな。
余計に怪しい。
とはいえ、昨日から僕たちは警官に追われ、自衛隊に撃たれ、人を拉致し、殴られ、殴り合いをし、レジスタンスの壊滅まで見てきたのだ。
今さら、この程度の嘘で動揺している場合ではない。
「まあ、いいか」
立山はあっさり納得した。
いいのかよ。
再び歩き始める。
僕はその背中を眺めた。
それにしても、どうしてこの男がここにいるんだ?
僕の知っている立山は、特別な人間でも何でもない。
金持ちでもなければ、大物でもない。
以前の会社でも上司との折り合いが悪く、不良社員扱いされていた。
ただし本人だけは、自分を優秀なプログラマーだと信じていた。
会社の業績は自分が支えている。
大きな仕事が取れたのも自分のおかげ。
そんな話を何度聞かされたか分からない。
実際には、大きな案件になるほど失敗していた。
そして失敗すると、だいたい誰かのせいになった。
とにかく、人間性が薄っぺらい。
その立山が、地球を支配するとか何とか言っている連中のパーティーで、シャンパンを飲んでいる。
世の中、どうなってるんだ。
「ところでさ」
立山が歩きながら言った。
「そのアプリ、使えなくなったら俺んところに来いよ」
「どういうことです?」
「俺も作ってるんだよ。新しいやつ」
立山が得意そうに自分の胸を指差した。
出た。
この顔だ。
昔、何度も見た。
これから自慢話を始める顔だ。
「新しいアプリって?」
僕が訊くと、立山は待ってましたとばかりに振り返った。
「これから世の中は大きく変わるんだよ。今までみたいに、誰でも同じサービスを受けられる時代じゃなくなる」
「はあ」
「選ばれた人間には、選ばれた人間のサービスが必要になる」
立山は得意満面だった。
「レストランでもホテルでもイベントでも、普通じゃ入れないところに入れる。予約だって優先される。そういう人間だけのネットワークを作るんだ」
僕は平石を見た。
平石は話が分からないので、ただ歩いている。
「つまり、上級国民専用アプリ?」
「まあ、簡単に言えば、そういうことだな」
立山は笑った。
「もちろん、お前だって使えるぞ」
「僕が?」
「ああ。俺の知り合いだからな」
ずいぶん急に親しくなったものだ。
会社にいた頃は、僕が仕事の説明を求めても面倒くさそうな顔をしていたくせに。
「ただし」
立山が人差し指を立てた。
来た。
「ただ?」
「こっちにも少し協力してもらう」
「何をするんです?」
「大したことじゃないよ。ベータテストに参加してもらったり、利用者を集めてもらったり。お前、こういうの得意だろ?」
何を根拠に言っているんだ。
「成功すれば、お前にもちゃんとメリットはある。これからは、どっち側にいるかで人生が決まるからな」
立山は僕の肩を軽く叩いた。
「せっかく昔の仲間に会ったんだ。悪いようにはしないよ」
昔の仲間。
初めて言われた気がする。
立山は再び歩き出した。
僕はその背中を見ながら、ようやく分かってきた。
こいつは操られているんじゃない。
少なくとも、そうは見えない。
自分からこっち側に来たんだ。
地球がどうなるとか、人が殺されているとか、そんなことはたぶんどうでもいい。
新しい支配者が現れた。
だったら、そっちについて行けば得をする。
その程度なのだ。
平石が僕の袖を引っ張った。
〈何を話してる?〉
僕は立山に見えないよう、腰のあたりで小さく手を動かした。
〈こいつ、俺たちを仲間にしたいらしい〉
平石の眉が上がった。
〈何の仲間だ?〉
僕は少し考えた。
〈勝ち組〉
平石はますます怪訝な顔になった。
僕にもよく分からない。
ただ一つ分かったことがある。
立山は僕たちを敵だと思っていない。
それどころか、自分の側へ引き込もうとしている。
だったら――。
しばらく、この男について行った方がいい。
敵のことを知るには、これほど都合のいい案内人はいない。
立山は何も知らず、薄暗い通路を得意げに歩き続けていた。
つづく
