世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

故郷へのカウントダウン エコー・オブ・アキュラ 第1章「十年の空白と、風の便り」 1.ハルト

故郷へのカウントダウン エコー・オブ・アキュラ 第1章「十年の空白と、風の便り」 1.ハルト

1.ハルト

 朝の牧場は、思ったより静かだった。

 牛はのんびり草を食べているし、風車もゆっくり回っている。
 空はどこまでも青くて、雲はまるで止まっているみたいに動かない。

 ――なのに、ハルトだけが忙しかった。

「待てってば……っ」

 ハルトは息を切らしながら、柵に沿って歩いていた。
 歩いている、というより、追いかけていると言った方がいい。

 逃げているのは一頭の子牛だ。
 白い額に星形の模様がある、小さな牝牛だった。

 子牛は振り返り、まるで遊んでいるかのように、ぴょんと軽く跳ねる。
 それだけで、ハルトとの距離はまた広がる。

 ハルトは歯をくいしばった。

 走れないわけじゃない。
 ただ――長くは走れないのだ。

 右足が思うように前へ出ない。
 ほんの少し遅れるだけで、体のバランスが崩れる。
 そして、すぐに息が上がる。

 子牛はとうとう柵のすき間から外へ抜けてしまった。

「あ……」

 ハルトは立ち止まった。
 胸が上下し、肩で息をしている。
 追いつけないことは、最初から分かっていた。

 そのときだった。

 後ろで、乾いた足音がした。

「朝の運動にしちゃ、ハードすぎるな」

 振り返らなくても、誰だか分かる声だった。

 父親のレイは、片手をポケットに入れたまま、ゆっくり歩いてくる。
 帽子のつばの影で表情はよく見えない。

 レイはハルトの横を通り過ぎると、ためらいもなく柵を乗り越えた。
 それから、ほとんど歩く速さのまま子牛へ近づく。

 子牛は逃げようとしたが、レイがそっと手を伸ばすと、不思議なくらい大人しくなった。
 首筋をなでられ、観念したように鼻を鳴らす。

 ほんの数十秒の出来事だった。

 レイは綱をつけ、子牛を連れて戻ってくる。
 まるで最初から外に出ていなかったかのように、静かだった。

「ほら、星印。お前の勝ちだな」

 レイは子牛に言い、柵の中へ戻した。

 ハルトは何も言えなかった。
 悔しいわけではない。
 驚いているのでもない。

 ――ただ、いつもこうなのだ。

 父は走らない。
 急がない。
 大声も出さない。

 それなのに、必ずうまくいく。

「焦るな」

 レイはハルトの肩に軽く手を置いた。

「牧場の仕事は、速さじゃない。間合いだ」

 意味はよく分からなかったが、ハルトは黙ってうなずいた。

「二人とも、朝ごはん冷めるわよ」

 声に振り向くと、家のポーチに由里子が立っていた。

「聞こえてる?」

「ああ」

 レイが片手を上げる。

「それ、さっきも聞いた」

 由里子は呆れたように言って、家の中へ戻っていった。

 ハルトが笑う。

「父さん、また怒られるよ」

「まだ怒ってない」

「これから怒るんだよ」

「じゃあ急ぐか」

 そう言いながらも、レイは急がなかった。

 ハルトはその背中を追いかけようとして――ふと、レイが立ち止まったことに気づいた。

 レイが胸元に手をやっている。

 シャツの下から、古びた紐がのぞく。
 その先には、小さな束――馬のたてがみで作られたお守りが揺れていた。

 レイは無意識のようにそれを握り、ほんの一瞬だけ空を見上げた。

 雲ひとつない、朝の空だった。

 けれどハルトには、
 父が“空を見ている”のではない気がした。

 もっと遠く――
 ずっと遠くを見ているように思えた。

 家の窓辺で、由里子もその姿を見ていた。

 レイが胸元のお守りに触れるとき、何を思い出しているのか。

 由里子は知っていた。

 けれど何も言わず、静かにカーテンを閉じた。

 

つづく

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