23
それから30分ほど大きな道路を走ると、車はビル街を抜け、郊外の住宅地へとやってきた。
細い道に入り、しばらく山道を登った後、山の斜面に立ち並んだマンション群の前でSUVが止まった。
彼女が住んでいたのは、10階建ての高級マンションだった。
車が敷地に入ると同時に、マンション1階のガレージのドアがセンサーによって自動的に開き始めた。彼女はその中にSUVを停めた。
車から降りると、僕もそれに続いた。
駐車場の奥から、様子を窺っていた若い女性が手を振っていた。何かを尋ねているようだったが、僕には聞こえない。
僕は空になった拳銃を彼女の腰にグイと押し当てた。
彼女の横顔が見る見るうちに硬直した。振り返ると、ぎこちなく女性に手を振り返した。
僕は強引に彼女の腕を取り、恋人同士のように装いながら、彼女の部屋の玄関ドアへ向かった。
凛々子の部屋はマンションの5階にあった。インターホンにはアルファベットで「KAWAGUCHI」と書かれていた。
〈下の名前は?〉僕は訊ねた。
〈リリコよ〉
僕が首を傾げると、彼女は右手人差し指でドアに空書きした。
〈こう書くのよ〉
「凛々子」
なるほど、難しい漢字だ。
家の中に入ると、彼女の手を引いたまま、各部屋を歩き回った。本当に無人なのか、確実に確認したかったのだ。
一通り確認を終えると、奥の部屋に小さな男の子がいた。男の子はゲームに熱中していて、母親が帰宅したことに気づく様子もなかった。
家にいたのはその子供だけだった。
僕はソファーのあるリビングまで歩いて行き、よろよろとソファーに倒れ込んだ。この時になってもまだ、僕は彼女の手を離さなかった。
彼女は恐れつつも僕の顔を覗き込みながら、手話した。
〈ねぇ、子供にだけは何もしないで〉
怯えながらの懇願だった。
僕は握っていた彼女の手を解放した。
〈しない。君にもしない。約束する〉
面倒くさそうに答えた。
僕は空の拳銃をリュックにしまうか、そのまま手に持ち続けるか迷っていた。あの街を出てからずっと、早く手放してしまいたい代物だった。
しげしげと拳銃を見つめながら呟いた。
〈こんなもの拾わなければよかった〉
さらに独り言のように続けた。
〈今日は、僕にとって最低最悪の一日だった〉
側にいた彼女が、蔑むような表情で手話した。
〈私にとってもそうよ。あなたが現れてからね〉
僕はため息をつき、〈ごめん。でも逃げるためだったんだ〉と弁解した。
彼女はさらに僕を問い詰めた。
〈あなた、その銃……どこで手に入れたの?〉
〈うん、さっき拾った〉
〈どこで?〉
〈道で……拾わなければよかったと後悔している〉
僕は焦燥と罪悪感から浮かない顔をして、彼女の言葉を読んでいた。
その途中で、大切なことを思い出し、たどたどしく言葉を繋いだ。
〈ああ、そうだった。警察官や自衛隊が、街で一般市民を殺し始めたんだ。君、知ってるだろ?〉
僕は銃を振り回しながら続けた。
〈僕も殺されかけた。隣町へ逃げて、また殺されかけて、なんとか逃げてきた。やつらは何かおかしい。これはその時に奪ったものなんだ〉
我ながら、おかしなくらい意味不明な手話だった。
僕は空の拳銃を差し出して、彼女に見せた。
〈まだこれで人を殺してはいない。でも襲われたら反撃しないと〉
僕は明らかに興奮しすぎていて、彼女を余計に怖がらせてしまった。
〈分かったわ。とにかく銃を下ろしてちょうだい〉
彼女はゆっくりとした手の動きで、僕をなだめた。おかげで少し落ち着きを取り戻した。
〈あなたの言う通りにするから〉
僕は彼女の手話をじっと見つめた。
〈でも息子を傷つけないで〉
彼女は切なげに手を合わせて懇願した。言い聞かせるように一語一語ゆっくりと……。
僕は彼女の目を覗き込むように訊いた。
〈僕の言ってること、本当に理解してる?〉
彼女は僕の前から静かに立ち上がった。
〈あなたは警察官や自衛隊と戦って、その拳銃を奪い取って逃げてきた〉
〈そうだ。でも疑っているんだろ?〉
僕は詰め寄った。
彼女は努めて冷静さを装いながら、僕から少し距離を置いた。
〈あなたの話が嘘でも、あなたが頭のおかしい人でも、話を疑ったり否定するのは、私たちにとって死に近づくことに他ならないわ〉
凛々子はそう言った。
〈生きるためには誰だってそうするものよ〉
僕は苦笑しながら答えた。
〈君は頭が良いし、度胸もあるな〉
〈私はいいの。とにかく息子を助けて〉
彼女は僕に背を向け、向かいのソファに腰を下ろした。
二人の間にしばらく重い沈黙が続いた。
僕は虚脱感に襲われ、急激な眠気がやってきた。
その隙を狙っていた凛々子が、静かに立ち上がった。
僕は目を閉じたまま、拳銃を持ち上げた。
〈何もするな。僕はもうすぐ出ていく〉
凛々子は落ち着いた手の動きで言った。
〈騙すつもりじゃないわ。ただ喉が渇いたの〉
僕は指でキッチンを指した。
〈水くらい飲んでいい〉
促されると、彼女はキッチンへと歩いて行った。
しばらくして、誰かが側に立っていた。さっき隣の部屋でゲームに熱中していた男の子だ。
彼はジュースのペットボトルを持って、僕に差し出した。
〈飲んで〉
僕は彼が手話するのを見て、この親子の事情を察した。
〈お邪魔してごめんね。怖くないからね〉
僕は手話で彼に言った。
彼は何か言おうとしていたが、手話を途中で止めてしまった。母親から何かを聞かされたのだろう。
僕はペットボトルをゴクゴクと飲んだ。喉がカラカラだった。
〈名前は?〉
僕は子供に尋ねた。
〈河口タキオ〉
彼は手話と指文字を使って答えた。口唇の動きも同時に見えたが、たぶんろうの子供に違いなかった。
僕は彼がフルネームで答えてくれたことに好感を覚えた。微笑みながら〈かっこいい名前だ〉とキッチンの彼女にも見えるように、大袈裟に手話で褒めた。
彼女はわざと僕とは目を合わせず、冷蔵庫のドアを開けて中を覗いている。
〈お父さんの仕事は?〉
僕はさらに質問を続けた。
彼はグラスから顔を離すと答えた。
〈警察官だよ〉
〈本当かい?〉
〈ホントさ〉
僕はまさかと思って、キッチンに立っている母親の姿を見た。彼女は僕とは目を合わせないように、下を向いてシンクを片付けている。
〈今日はパパ、お仕事?〉
僕の問いかけに、キッチンの彼女が顔を上げた。
〈ううん、パパね。ずっと帰ってこないの〉
〈ずっと?〉
〈うん、ずうーっと〉
子供は両手で輪っかを組み合わせ、顔をしかめながら手を胸から突き出した。
僕は子供が言い終わるのを待たず、ソファーから飛び起きてキッチンの彼女に向かった。
〈なぁ、最近、警察官は何かおかしいと思わないか?〉
彼女はこちらを見ようとしない。
僕は大袈裟な手話を繰り出しながらキッチンまで歩き、彼女から詳しい話を聞き出そうとした。警官の妻なら、何か知っているかもしれない。
冷蔵庫から顔を出し、振り返った凛々子の目つきは鋭かった。
彼女はこの瞬間を待っていたのだ。
冷蔵庫から取り出したワインの瓶を高々と振り上げ、僕の側頭部に振り下ろした。
鈍い痛みと暗闇が一気に脳内に垂れ込めた。

僕は殴打の反動で勢いよく床に転倒し、四つん這いになった。それでもまだ少し立ち上がる余力があった。
顔を上げると、仁王立ちになった凛々子の姿が見えた。右手に握りしめた大きな瓶が見える。
ワインのペットボトルで殴られたのだ。
渾身の力で立ち上がり、彼女の追撃をかわしながら玄関ドアを目指した。
体当たりするようにドアを開け、廊下に飛び出した。
階段が視界に入ると、転落するように転がり降りていった。死にものぐるいだった。
少し意識がはっきりしてきた頃、スピードを落とし、頭を押さえながら普通に階段を下りた。
河口凛々子は僕が部屋にいる間に、すでに警察へ通報したかもしれない。普段から聴覚障害者と接しているなら、それくらいの判断は容易なことだ。
ということは、もう警察が駆けつけているかもしれない。下手をすると、マンション周囲は既に包囲されている可能性もある。
僕はよろけながら、殴られた左側頭部に手をやった。
まさか骨は折れていないだろうが、少し陥没している。これから大きく腫れ上がるのだろう。
出血がないのが幸いだった。
あれは安いワインだったのかな。最近はワインもペットボトルになってきたからな。ガラスの瓶なら即死だっただろう。
意識ははっきりしていたが、ワインの瓶で殴られた頭がまだ相当痛む。めまいがしてまともに歩けそうにない。
ふらつきながら駐車場を出た。幸い、警察による包囲はまだないようだった。
監視カメラには僕の姿が映っているはずだ。
車道で何度か足がもつれ、転んでは起き上がって歩き続けた。時にはアスファルトに尻もちをつき、ひと休みした。
苦労の末、僕はまた街へ戻ってきた。
途中で何度か、回転灯を点灯したパトカーを見かけた。僕はその度に路地裏に逃げ込んだ。
パトカーは凛々子の通報によるものだろうか。
彼女を恨む気になれなかった。これは当然の報いなのだ。
凛々子がろうの子供の母親であったとしても、僕に情けをかけることは間違っている。
僕はどう動けばいい? どう動くべきなのか?
薄暗くなった街の片隅で、自問自答しながら朝になるのを待った。
つづく
悪魔の子


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