25 ハンドサインの約束
「それで、辞めた後はどうするんだ?」
ディーが計器類のチェックをしながら、レイに尋ねた。
レイはシートに深くもたれ、窓の外を見つめていた。
「母国に帰って、牛の世話をするんだ」と静かに答えた。
「牛?」ディーは驚いたように繰り返した。
「うん、親父が牧場をやっているんだよ」とレイは微笑みながら言った。
ディーは首を傾げ、レイの顔をじっと見つめた。
「お前、牛が嫌いで家を出たんじゃなかったのか?」
レイは苦笑いを浮かべた。
「そんなこと言ってたっけ?」
「ああ、言ってたよ。雌牛に追い回されて泣きながら逃げたって話をしてたじゃないか」
「ああ、あれは子供の頃の話さ。今はもう大丈夫だよ」
「それにしても、牛のウンコにつまずいてジーンズを台無しにした話は?」
「あれは、ただの小さなハプニングさ」
ディーはクスリと笑い、レイの肩を叩いた。
「でも、お前が牧場に戻るのはいいことだ。家族と一緒にね」
レイは頷き、窓の外に目を向けた。
「そうだな。ハルトにも、自然の中で育ってほしいし」
ディーはレイの決意を感じ取り、少し安堵を覚えた。
「それで、オレゴンか。美しいところだろう?」
「ああ、空気が澄んでいて、星がよく見えるんだ」
「ハルトにとっては、新しい冒険が始まるんだな」
レイは深く息を吸い込み、操縦桿に手を伸ばした。
「そうだな。新しい冒険の始まりだ」
「俺も遊びに行っていいかな」
「いいとも。牛舎の掃除や堆肥の運搬とか頼むことはたくさんあるしな」
「いや、あのオレは、ステーキとかローストビーフを食わしてくれるだけでいいんだけど」
「そんなの、ウンコの始末の後だ」
「やっぱり行くのやめようかな」
突然、由里子の声が操縦席に響き渡った。
「キャビンのスピーカーから聞こえてるわ。操縦室のマイクが拾ってるのよ、レイ」
レイはダッシュボードを確認し、慌ててスイッチに手を伸ばした。
「本当だ。ゴメンゴメン」
「リラックスしたいのは分かるけど、子供たちが動揺してるわ。しっかりしてね」
「了解、了解」
そして、時は来た。レイとディーは沈黙し、コクピットは静寂に包まれた。
「最後のフライトだ」とレイは心の中でつぶやいた。
呼吸を整え、もう一度外の景色を見た。小高い丘の上に、レオの姿があった。彼は小さく手を振っていた。あの少年は、やはりここに残るのか…。
無事に帰還できるかは、俺にだって自信がない。ここに残りたいのなら、無理に連れ帰る必要はない。
レイはその姿を見つめながら、心の中でレオに語りかけた。
「レオ、お前はこの星で大きなことを成し遂げるんだ。お前の知恵と勇気が、この星の未来を明るく照らすんだ」
その頃、キャビンでも脇田がレオの姿に気づいていた。
「おい、レオが手を振っているぞ」
しかし、既にエンジンが始動していた。窓のないキャビンの前方にいるマリコやユキオたちには、その姿が見えなかった。レオの姿を一目見ようと、シートベルトを解除すると、緒方の怒鳴り声が聞こえた。
「もうカウントダウンが始まるぞ。席から離れちゃダメだ」
脇田は窓に手を当て、レオに向けて手を振り、何度も頷いた。
その瞬間、レオの目から一筋の涙がこぼれ落ちたのが見えた。別れの悲しみのようにも見えたし、新たな旅立ちへの少年の決意のようにも見えた。
レオはこれまでもこうやって生きてきたのだし、これからもこうやって生きて行くのだ。何となく俺には分かる。レオにとって地球は悲しみの詰まった孤独な星なのだ。マリナスに行っても同じ思いをしてしまうのかもしれない。
「あいつ、何か手話してるぞ」
脇田が大声で言った。「これって何だ?」彼はレオの手の形を真似た。人差し指と中指で作ったチョキを横に倒したものだった。
背後を振り返っているマリコが答えた。「『また』よ」
「今度はこうやってる」脇田は左右の人差し指を向かい合わせ近づけた。
「『会う』って意味よ」マリコは答えた。「レオ君、『また会おう』って言ってるのよ」
「俺も会いに行くぞ」と脇田は語気を強めて言った。彼の声は外のレオには届かないが、その言葉には強い決意が込められていた。
「またなぁ、レオ。元気で待ってろよ」脇田はうろ覚えの「また」という手話を何度も繰り返した。
いつの間にか、レオの横に長老やタクバ、村人たちが集まっていた。
「レオのこと、よろしくお願いします」
脇田の目に涙があふれ、彼らの姿がかすんで見えた。
「本当の、本気でさぁ、俺はまたお前に会いに行くよ」
X50のキャビンのフロアがいっそう大きく揺れ出した。
カウントダウンが始まるのだ。「出発するぞ!」レイの押し殺した低い声がキャビンに流れた。
由里子が前席から後ろを振り返り、何かを大声で言っていた。
もう既にひどい振動と騒音で、人の声など聞こえるはずもない。
ユキオは由里子の唇が『頑張って地球に帰りましょう』と言っているのが分かった。
マリコにそれを伝えようとしたが、マリコは固く目を閉じていた。
翔太も美咲も目を閉じていた。ユキオもまた静かに目を閉じた。
左隣のマリコが手を握ってきた。右隣の翔太も手を握ってきた。美咲も翔太の手を握っていた。
船内の空気が緊張で張り詰める。
操縦席のレイは深呼吸をし、操縦桿を握りしめた。
「最後のフライトだ」
彼は何度も、自分に言って聞かせた。
吐く息が激しく、恐怖心と闘志が身体の中でせめぎ合っていた。
しかし、このみなぎる力はどうだ。
若い父親は拳を握った。
身体は相当まいっているはずだが、レイの頭の中は冴え渡っていた。
彼は腕時計を覗き、指のこわばりを念入りにもみほぐした。
隣席のディーが親指を立てて、レイを促した。
とうとうこの時が来たんだ…。
レイは虚空を睨んだ。鼓動が胸を波打つ。
最終フライトのカウントダウンは、あと数秒で始まろうとしていた。
故郷へのカウントダウン 終わり
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