第40話 帰るべき場所
ウインドベル自然科学研究所で、所長の結婚式が行われようとしていた。
空は晴れ渡っていた。
雲ひとつない。
おまけに研究所の庭には、満開のチェリー・ブラッサム。
K4地区の人々が集まり、朝から嬉々とした笑い声を響かせている。
経費節約のつもりで教会での結婚式は諦めたというのに、K4地区の教会はわざわざ鐘まで鳴らしてくれていた。
どうやらオットー博士という男は、本人が思っている以上に地域の名士であるらしい。
ケンジは二階の窓から、庭に集まった人々を眺めていた。
「せめてネクタイの色を変えたらどうだ」
背後からリプリーが言った。
「どんな色にすればいいんです?」
「その血膿色は今日はよせ。銀行の営業マンみたいだ」
リプリー元警部補は昇格し、今では警部だった。
今日は本人なりに正装している。
黒の上下に、ヒラヒラした飾りのついた白いシャツ。何度もワックスをかけて艶を出したワニ皮のいやらしい靴。そして腕には、どう見ても本物とは思えないローレックス。
「これを使え」
オットーがロッカーから、幅の広い黄色のネクタイを取り出してケンジに投げた。
ケンジは自分の胸元に当ててみた。
金ボタンのブレザー。ネズミ色のスラックス。牛皮の靴。そして黄色いネクタイ。
どう見てもコメディアンだった。
「何ですか、これは。元のを返してください」
ケンジが怒ると、オットーは黙って元のネクタイを返した。
本人は尾の長いタキシードを着ている。
似合っているのが、また腹立たしい。
「花嫁が下で待っているぞ」
リプリーに言われ、オットーはようやく二階を下りていった。
リプリーもその後を追った。
「ケンジ、いつまでここにいるの」
気がつくと、エミリーが二階へ上がってきていた。
「エミリー」
ケンジはネクタイを結び直しながら、彼女のそばへ行った。
白いドレスを着ていた。
「すぐ行くさ。アレンは?」
「庭にいるわ。パパとママも来てるの」
「そうかい」
ケンジはエミリーの手を取って、部屋を出ようとした。
だが、エミリーがその手を引いた。
「どうした、エミリー」
「仕事、決まったのね」
ケンジは少し恥ずかしそうに頷いた。
「あまり高待遇とは言えそうもないけどね」
「どうしてここへ就職する気になったの?」
「オットー所長を尊敬しているからさ。ここで働けたら、どんなにいいだろうって思ってた」
ケンジはエミリーの顔を見た。
非難している様子はなかった。
「ずっと前からそう思っていたんだ。君と出会う前からね」
「仕事は大丈夫なの? 専門が違うんでしょ」
「大丈夫さ。事務員だから。専門の仕事は少し手伝うくらいだよ」
「そう。良かった」
エミリーはそこで少し目を細めた。
「でも、警察ごっこはもうやめてね」
「そんなことしないよ」
ケンジは慌てて答えた。
エミリーは笑った。
二人は窓辺へ戻り、庭に集まった人々を眺めた。
桜の木の下にアレンがいた。
見知らぬ少年と一緒だった。
たぶん彼氏だろう。
門の近くでは、サムとリンダが話をしている。
「良かったね。お母さんが戻ってきて」
ケンジが言うと、エミリーは顔をしかめた。
「あれ、良くなかったのかい」
「ううん。良かったことは良かったんだけど、見てられないのよ」
「何を?」
「オアツイところ」
ケンジはもう一度、窓の外を見た。
確かに、少々オアツイ。
「ねえ。うまくいってなかったっていうけど、何かきっかけがあって別居したんだろ?」
「そうよ」
「何だったんだい」
「パパが……ママにお小遣いをあげなかったかららしいの」
「は?」
「ちょっと買い物し過ぎちゃって」
「……で?」
「それで、よそで働くってことになっちゃって……」
ケンジは苦笑した。
あれだけの騒ぎの始まりが、それだったのか。
「でも、不思議だね」
「何が?」
「目の前の相手が嫌になって、別の相手を探す人だっているわけだろ。君のママの場合、パパが好きなのに、拗ねて出ていった。それで結局、また戻ってきた。これはどういうことなんだろうな」
「簡単なことよ」
エミリーは言った。
「パパも他の人に目移りしなかったでしょ」
ケンジは頷いた。
「サムが優しいからよ。どんな男だって、ママにとってはサムにかなわないってこと」
ケンジは何も言わなかった。
窓の外では、サムとリンダが寄り添うように立っていた。
いろいろあった。
離れて、腹を立てて、意地を張って、それでも結局、リンダはここへ戻ってきた。
サムは迎えに行かなかった。
ただ、そこにいた。
考えてみれば、待つということは、それほど大したことではないのかもしれない。
待とうが待つまいが、時間は節操もなく過ぎていく。
サムには、どうにもできなかったのだ。
追いかけて連れ戻したところで、また同じことになっただろう。
帰るかどうかを決めるのは、リンダだった。
そして帰ってきたリンダを受け入れるかどうかを決めるのは、サムだった。
それだけのことなのかもしれない。
ケンジは隣にいるエミリーを見た。
そして、もう一度サムを見た。
そうだよな、サム。
つづく
