世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

サイレント・レジスタンス 5 介護の日常

サイレント・レジスタンス 5 介護の日常

第5話 介護の日常


 急いで決めた転職だったが、新しい職場は、思っていたよりもきちんとしていることがわかってきた。


 高層ビルに囲まれた静かな公園エリアに、その介護施設はひっそりと佇んでいる。


 入居者は約百人。自力歩行ができる高齢者もいれば、寝たきりの方もいる。いわゆる介護施設というやつだ。


 食事の時間になると、歩ける高齢者たちはテーブルの並んだ食事スペースまでやってくる。


 歩けない方は、スタッフが車椅子で連れてくることになる。


 車椅子での移動で済めばまだ楽なのだが、本当に大変なのはそこからだ。食事の介助が必要になる。


 僕はご飯をすくったスプーンを、大川さんの口元に運んだ。


「大川さん、もう一口いかがですか?」


「なぜだ?」


「まだ半分しか召し上がってないでしょう」


「もう食わんぞ」


 大川さんは鋭い目つきで僕を睨んだ。「あとはキミが食べろ」


「僕は食べませんよ。夕食はちゃんと召し上がっておかないと、朝まで体が持ちませんよ」


「持たなくていい」


「お腹が空いて眠れませんよ」


「眠れなくていい」


 僕は諦めて、食器にスプーンを置いた。食べないと言っている以上、無理強いはできない。


 そのとき、タイミングよく個室のコールが鳴った。この施設のコールは大音量なので、補聴器をつけている僕にも聞こえる。


「大川さん、僕はちょっと向こうに行きますが、よろしいですか?」


「なぜだ?」


「呼ばれたんです。音が鳴っているでしょう」


「そうか、行きたまえ」


 僕は立ち上がり、コールランプが点灯している部屋へと急いだ。


「どうなさいましたか?」


 部屋のベッドで、誰かが手招きしている。


「……たの」


「すみません、なんとおっしゃいましたか?」


 僕はベッドサイドに近づいた。そこには、ミイラのように痩せこけた老女が横たわっていた。老女はすがるような眼差しで、小さく口を動かす。


「……たのよ」


「申し訳ありません」


 情けないことに、補聴器をつけているのだが、彼女の小さな声は、僕の耳には届かなかった。


「すみませんね。もう一度おっしゃっていただけますか。僕、耳が遠いもので」


 これで聞き取れなければ、他のスタッフを呼ぼう。僕は一縷の望みをかけて耳を澄ませた。


 すると老女は突然目を見開き、鼻を膨らませて、大声で叫んだ。


「うんこが出た、と言ってるのよ!」


 確かにそんな匂いがしている。僕は慌てて謝った。


「申し訳ありませんでした。やっとわかりました。女性スタッフを呼んできますので、お待ちください」


 僕は急いで廊下に出たが、女性スタッフの姿が見当たらない。


 部屋に戻り、老女にもう一度告げた。


「女性スタッフを探してきますので、もう少しお待ちください」


 老女は不満そうに頷いた。


 僕は小走りで食事スペースに向かった。


 車椅子の利用者に食事介助をしている女性スタッフを見つける。


「すみません、排泄の対応が必要な方がいらっしゃるのですが」


「ああ、ごめんなさい。今は手が離せないの。食事介助中だから、ノロウイルス感染のリスクもあるし、この方、やっと食べ始めたところなの。あなた今、手が空いているでしょう?」


「でも僕、男性ですし、大丈夫でしょうか」


「お婆ちゃんが了承してくれるなら、お願いします」


 僕は急いで部屋に戻り、老女に事情を説明して、自分が対応させてもらってもよいか尋ねた。


 老女はためらうこともなく「替えてちょうだい」と言った。


 おむつ交換は思ったよりもスムーズに終わった。


 手指を消毒して食事スペースに戻ると、大川さんの皿はいつの間にか空になっていた。


「ご自分で召し上がったんですか?」


「食べた」大川さんは答えた。「うまかったよ」


「それは良かったです」


 食器を片付けた後、大川さんに歯磨きをしてもらい、テレビのあるフロアで他の利用者と一緒に過ごしてもらった。


 しばらくすると、大川さんが眠そうな表情を見せたので、車椅子で個室まで移動し、ベッドに休んでもらった。

 

つづく

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