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辰の刻を告げる鐘の音が遠くから聞こえ、その響きが赤岩ん淵の周囲に緊張感を漂わせている。
武蔵春信は、その音に耳を傾けながら、静香の行方を探して、赤岩ん淵へ歩みを進める。
赤岩ん淵の河原では、合志仙蔵が空を見上げていた。
彼の横には葛西源生をはじめ、葛西道場の門下生が大勢立ち並び、武蔵春信の姿を息を呑んで見つめていた。
「武蔵春信が来よったぞ!」と仙蔵が叫ぶ。
彼の声に反応して、門下生たちがざわめき始める。
「なんと!?」
「おお!」と、彼らは緊張しながら真剣を構える。
しかし、仙蔵の眼差しは父、合志十右衛門へと向けられた。
十右衛門は息子の抜刀を見て、慌てて制した。
「仙蔵よ、お前が行くのか。葛西に行かせろ」
十右衛門の声には若干の苛立ちが感じられた。
「父上。拙者の腕前をお見せ致しましょう」
仙蔵は一歩前に踏み出し、刀を構えた。
武蔵の後ろから、一陣の風が吹き抜けた。
その風に続いて、横井岳人が声を張り上げた。
「待てよ!若殿」
岳人は怒気を滲ませながら、仙蔵を睨んだ。
〈バカ殿の相手は俺等で十分だ〉
佐々剛介も手話でそう言いながら、仲間たちとともに前へ進み出た。
岳人も剛介に続き、「武蔵さん。ここは僕らに任せて下さい。静香さんを早く!」と口話で訴えた。
武蔵春信は一瞬だけろう剣士たちに視線を向け、静かにうなずいた。
「済まん!仙蔵は任せた。真剣を持っとるけん。用心せい」
そして、白川の流れへと駆け出した。
彼の叫び声が響く。
「静香どのぉ!」
その声に答えるように、白川の浅瀬から甲高い悲鳴が聞こえた。
「武蔵さん。来ないで」
河原に三人の南蛮人の人影が見え、彼らの中に憔悴した大黒静香の姿があった。
モンテロが叫んだ。
「目当ての者を捕捉するまで娘を渡すでない」
バルボアも声を荒げた。
「まずは武蔵をやるのじゃ!」
武蔵は迷わず進むが、前方に立ちふさがる人影があった。
「武蔵よ、身動きするでない!」
モンテロが手を合わせ、人差し指を立てて威圧する。
「刀を捨てよ!」と言い、低い声で呪文を唱え出した。
武蔵は相手を見据え、微動だにしない。
「この者、刀を捨てぬわ!」
牛俵重蔵が横から割り込んできた。
モンテロか言った。「術は効いておる。意思が強いのじゃ」
「ならば、わしが斬る」
重蔵が刀を抜いた。
武蔵は硬直したままだ。
背後から大久保真丸が飛び出し、「えいっ!」と叫びながら、重蔵に向けて木刀の一閃を放った。
重蔵はその攻撃を受け、刀を落とした。
「こやつら、捨てぬぞ! 呪文が聴こえておらんのか!?」と呻き声を上げた。
その隙をついて真丸は重蔵の横を駆け抜け、肩に木刀を振り下ろした。
「うぎゃー!」と重蔵が悲鳴を上げた。重蔵は河原に倒れ、仁王立ちの大久保真丸を見上げた。
…そうか、こやつは元々音が聴こえぬのか、だから呪文が…そう呟きつつ意識が途絶えた。
大久保真丸が声を荒げ、「武蔵先生!気を確かに」と言い、武蔵春信の身体を揺すった。
武蔵の身体の硬直が解け、ようやく真丸に向き直って口を開いた。
「し、静香さんは?」
次の瞬間、ドン・パルマの不気味な呪文が辺りに響く。
ドン・パルマは両手を組み、人差し指を立てて目を閉じている。
「…………………」
狩野陽向が戸惑いの表情を浮かた。
…はっ…あの時見たのと一緒だ。今度のターゲットは誰なんだ?
陽向は辺りを見回した。すぐに異変に気付いた。
〈大和が、大和の様子が変だ〉と他の三人にジェスチャーで伝えた。
松井大和の体躯が直立したまま宙に浮いていく。
「下がれ! 下がるのじゃ!」とバルボアが叫び、周囲の者たちは混乱しながらも後退する。
「何と面妖な!人が浮いておる」
合志十右衛門が恐怖に慄きながら呟く。
「刀を収めるのじゃ! 剣を下ろせ! 争いをやめよと申すのじゃ!」とモンテロとバルボアが必死に命じる中、ドン・パルマが松井大和に静かに歩み寄る。
そしてドン・パルマもまた、宙に浮いていく。
「こちらの異界からの客人の御言葉に耳を傾けよ。イエスの末裔ジェロニモ公である」と、彼が厳かに言葉を発する。
大久保史恵が驚愕し、「大和どのがキリストの!?」と声を漏らした。
佐々剛介が〈待て!大和、正気に戻れ!〉とジェスチャーで大和を呼んだ。
横井岳人も焦燥感を露わにし、叫んだ。
「大和、騙されるな!これはドン・パルマの妖術だ!」
だが、その声も大和の耳には届かない様子だった。
人の肩ほどの高さに浮いた大和の表情は、遠く一点を見つめたまま、微動だにしなかった。
「皆の衆!ゼウスの御前じゃ。頭を下げよ、御言葉を傾聴せよ!」
ドン・パルマが厳かに言い放った。
「細川家・家老 合志十右衛門だったよな」
大和が口を開いた。鋭く容赦のない声が冷たく響く。
「わしが何じゃ?」
十右衛門が見上げながら訊いた。
「米問屋・桐場屋より賄賂を受け取ったな。細川家・剣術指南役 大久保藤淳を失脚させようと、大黒屋の娘の史恵を仙蔵の嫁に欲しがり、叶わぬとなれば闇討ちとは、やりたい放題だな」
大和の声には厳しい非難が込められていた。
合志十右衛門は震えながら反論する。
「何を申すか。ゼウスとやら、拙者一切身に覚えがないぞ」
松井大和は冷たく笑い、「ほう…合志十右衛門。ドン・パルマが授けたそなたの胸元の十字架には覚えがあろうな。そなたの悪行の全てをその十字架が聞き及んでおるぞ」
合志十右衛門は動揺し、「いや、決してそのようなことは…あってご、ざ、ら、ん…」と答えかけたが、大和の冷徹な視線に怯え、口を閉ざした。
ドン・パルマが再び呪文を唱えた。
「…………」
その呪文の力で、合志十右衛門は胸を押さえて苦しみ出す。
「ぐっ、ううう」
「どうだ、合志の。認める気になったか?」
大和の問いに、十右衛門は「恐れ入りました」と涙を流して答えた。
「大和!目を覚ませ!お前はジェロニモとかゼウスじゃないだろ!」
横井岳人が叫び、狩野陽向も〈大和!僕らの手話が見えないのか!〉と訴える。
しかし、大和はその手話にも反応しない。そもそも遠くを凝視したまま、手話を見ようともしない。
ドン・パルマが深く一礼し、「ジェロニモ様。 あなたのお会いするには、こうするしかなかった。面目ない。約束の通り、大黒屋の娘はお返しします」と申し出る。
「返してくれるか」
大和が冷たく問いかける。
「無事に返してくれれば、騒ぎ立てるつもりはない。二度と彼女に近づかないと約束してくれよ」
ドン・パルマは深く頷いた。モンテロとバルボアは、大黒静香を武蔵春信の元へ引き連れていった。
武蔵は静香を優しく抱き寄せた。静香は大粒の涙をポロポロと零した。
ドン・パルマが再び口を開いた。
「ところで、ジェロニモ様、もう一つ、提案がございます。」と続ける。
「何だよ?提案って」
大和が問いかける。
「はっ。あなた様がもしお望みなら、お仲間の四人を元の世界へお返しいたしてさしあげることが…」
松井大和はドン・パルマの提案に耳を傾けていたが、次第に表情が険しくなった。
目の前で不穏な空気が漂う中、大和の仲間たちも息を呑んでその場の成り行きを見守っていた。
大和が口を開いた。
「お仲間を…元の世界へ返すだと?そんなことが可能なのか?」
ドン・パルマは微笑を浮かべ、ゆっくりと頷いた。
「はい、ジェロニモ様。異界の力を操る術を持つ私どもであれば、時空を超えることもまた可能です。ただし…その代償は決して安いものではございません」
大和の仲間たちは困惑の表情を浮かべた。辺りには囁き声が広がった。
岳人が慌ただしく手話を始めた。他の三人に伝えるためだ。
〈代償…って言ってるぜ。いったい何を要求するつもりだ…?〉
佐々剛介が手話で返した。
〈やっぱり罠だ!奴らの言葉に乗せられるな、大和!〉
ドン・パルマはろう剣士たちの手話を気に留めることもなく、静かに続けた。
「代償とは、ジェロニモ様が我らと共にこの世を治めていただくことです。我々はあなたの指導を仰ぎ、この国を新たなる時代へと導きたいのです」
松井大和の顔は苦悩に満ちたものへと変わった。
彼の仲間たちも一様に不安を隠しきれない様子で、大和の決断を待っていた。
猿渡飛雄が待ち切れず、泣き顔で手を動かした。
〈大和!自分を犠牲にするつもりか?俺たちは君と帰りたいんだよ。帰るべき場所は現代だけど、それは五人揃ってのことだ〉
狩野陽向も後に続いた。
〈そうだ、大和。ここで歴史を変えるために来たわけじゃない。俺たちには帰るべき世界がある〉
松井大和はしばらく黙り込んだ後、深呼吸をして覚悟を決めたような表情を浮かべた。
「わかった、ドン・パルマ。もし俺がその代償を払うことで仲間たちが元の世界へ帰れるというのなら…」
言葉を切り、ドン・パルマを見据えた。
「その提案、乗るしかない。しかし、条件がある」
ドン・パルマは少し驚いた表情を見せたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「ほう…その条件とは?」
「仲間たちが無事に元の世界へ帰ったと確認できるまで、俺はここに留まる。が、彼らが無事でなければ、俺は何も手伝わない」
ドン・パルマはしばし考え込み、その後、ゆっくりと頷いた。
「承知した。ジェロニモ公、その要求に私どもも応えましょう」
その瞬間、周囲の空気が変わり、不思議な風が吹き始めた。ドン・パルマが何か呪文を唱え始めると、大和の仲間たちが徐々に光に包まれていった。
〈おい、大和!本当にいいのか?〉
この時初めて、松井大和は足下を見下ろし、仲間の姿を見た。
「大丈夫だ。みんなが帰った後、必ず俺は元の世界へ帰ってくる!」
その光景を見守りながら、大和は強く祈った。
彼がここで何をするべきか、まだよく分からなかった。
仲間たちの姿が光の中に消え去ると、彼の身体は地面に降りてきた。
「無事、お送りしましたぞ」
ドン・パルマが言った。
「本当かい?全然信じられんのだけど」
大和は怪訝そうに言った。
「ご覧に入れましょう。空をご覧あれ」
ドン・パルマが空を指し示すと、崩壊した瓦礫だらけの建造物跡が映し出された。
「ああ、僕たちの道場だ…」
崩れかけた天井から、薄暗い光が差し込んでいた。
床には、折れた竹刀や破れた防具などが散らばっていた。
かつて活気に満ちていたこの空間は、今では静寂に包まれていた。
砂埃が舞う道場の中、三人の少年剣士の姿がゆっくりと浮かび上がった。
彼らは瓦礫の山から這い出るようにして立ち上がり、周囲を見回した。
「いかがかな、ジェロニモ公」
「ああ、それで僕は何をすればいい?」
「それはわしらの城でゆっくり話そうではないか」
ドン・パルマと松井大和は、モンテロとバルボアを従えながら、河原から茂みの中へ姿を消していった。
つづく
