世界から少しずれた誰かの、声にならない叫び。ささやかな祈り

故郷へのカウントダウン エコー・オブ・アキュラ 6.行く理由

故郷へのカウントダウン エコー・オブ・アキュラ 6.行く理由

6.行く理由

 脇田とレイは、家のテーブルに地図を広げていた。

 コーヒーは冷めたまま、誰も口をつけていない。

 ハルトは少し離れた椅子に腰掛け、二人の横顔を見ていた。

 由里子はキッチンに立っていた。

 会話には加わらず、カップを片づけたり、意味もなく布巾をたたみ直したりしている。

 けれど、話はすべて聞いていた。

「ネバダか」

 レイが地図を指でなぞる。

「緒方の連絡じゃ、保管施設は砂漠の地下だ」

「十年前より厄介そうだな」

 脇田が苦く笑う。

「まあ、楽な旅だったことなんて、一度もない」

 レイも小さく笑った。

 その言葉に、由里子の手が一瞬だけ止まった。

「……本当にね」

 小さな声だった。

 脇田が顔を上げる。

「由里子さん」

「何?」

「いや。聞いてたんだなと思って」

「聞こえるところで話してるでしょう」

「それもそうだ」

 脇田は頭をかいた。

 レイは何も言わなかった。

 由里子も、それ以上は何も言わなかった。

 十年前のことを、ここで説明する必要はなかった。

 三人とも、同じ場所にいたのだから。

 ハルトだけが、その沈黙の意味を知らなかった。

「宇宙へ行くの?」

 ハルトが聞いた。

 レイと脇田は顔を見合わせた。

 脇田が誤魔化そうとする。

「遠出だよ」

「嘘だ」

 ハルトは即座に言った。

「父さん、そんな顔するときは嘘なんだ」

 レイが小さく息をつく。

「……そうだ」

 静かに認めた。

「宇宙へ行く」

 ハルトの胸が高鳴る。

「じゃあ僕も――」

「駄目だ」

 レイは即答した。

 その声だけは、一切迷わなかった。

「危険すぎる」

「でも父さんは行く」

「俺は約束を果たしに行く」

「僕だって!」

 思わず立ち上がる。

「僕だけ何も知らない!

 アキュラって何?

 友達って誰?

 どうして二人とも、あの信号を聞いた途端に変わったんだ!」

 沈黙が落ちた。

 脇田がレイを見る。

 レイは目を閉じたまま動かない。

 由里子も黙っていた。

 やがてハルトは、小さく続けた。

「……あの信号」

「何だ?」

 脇田が顔を上げる。

「あれ、音じゃなかった」

 二人の視線が集まる。

「音じゃなくて……」

 ハルトは机を見つめた。

「誰かが手を動かしてるみたいだった」

 レイの眉がわずかに動く。

 ハルトはゆっくり机を叩いた。

 ……トン。

 ……トン、トン。

 ……トン。

 部屋が静まり返る。

「昨日は分からなかった」

 ハルトは続ける。

「でも、ずっと考えてた」

「音じゃなくて……

 誰かが返事を待ってる感じだった」

 脇田がゆっくり椅子から立ち上がる。

「レイ」

「ああ」

 二人は何かを思い出したようだった。

 由里子も、いつの間にか手を止めていた。

 脇田はハルトの前にしゃがみ込む。

「ハルト」

「はい」

「お前、手話は分かるか?」

「少しだけ」

「少し?」

「会社に耳の聞こえない人がいて……

 挨拶くらいなら」

 脇田は静かに笑った。

「そうか」

 そして独り言のようにつぶやく。

「やっぱりだ」

 ハルトは首をかしげる。

「何がです?」

 脇田は答えた。

「十年前。

 アキュラには声の言葉も、身振りもあった。

 でも、細かい気持ちを伝える方法が少なかった」

 レイが続きを引き継ぐ。

「そこへ、一人の少年が来た」

「少年?」

「ユキオだ」

 レイは穏やかな目で言った。

「耳が聞こえなかった」

「その代わり、手で話した」

 脇田が懐かしそうに笑う。

「あいつの手話を見て、

 アキュラの長老が言った」

『この話し方なら、皆の心をもっと伝えられる。』

「それから十年」

 レイは静かに続けた。

「アキュラでは手話が文化になった」

「子供も大人も使う」

「そして宇宙へ届く信号も、

 手話の“間”や“リズム”を取り入れるようになった」

 ハルトは息を呑む。

「だから……」

「僕は手話みたいだと思ったのか」

 脇田が頷く。

「お前に特別な力があるわけじゃない」

「ただ」

「お前は、その“間”を自然に受け取れた」

 レイがお守りを握る。

「俺たちは音として聞いた」

「お前は会話として感じた」

 ハルトは静かに机を見つめた。

 昨日の牛舎。

 あの返事。

 あの“待っている”という感覚。

 全部が一本につながっていく。

 脇田が立ち上がる。

「レイ」

「ああ」

「もう迷ってる時間はない」

 レイはゆっくりハルトを見る。

「……一つだけ聞く」

「怖いか?」

 ハルトは少し考えた。

 怖くないと言えば嘘になる。

 でも、それ以上に。

 あの返事の続きを知りたかった。

「怖い」

「でも……」

 まっすぐ父を見る。

「行きたい」

 レイは長い間黙っていた。

 やがて帽子を脱ぎ、静かに笑う。

「俺も十年前、同じ顔をしてた」

 脇田が苦笑した。

「止めても無駄だな」

 レイは頷いた。

「約束しろ」

「必ず帰る」

 ハルトは力強く頷いた。

「約束する」

「ちょっと待って」

 由里子の声がした。

 レイの動きが止まった。

 ハルトも振り返る。

 由里子はキッチンから出てきて、テーブルの前に立った。

 怒っているようには見えなかった。

 けれど、笑ってもいなかった。

「ずいぶん簡単に決めるのね」

「由里子――」

「あなたには聞いてない」

 レイは黙った。

 脇田がそっと視線をそらした。

 由里子はハルトを見る。

「本当に行きたいの?」

 ハルトは少しだけ迷ってから、頷いた。

「うん」

「怖いのに?」

「怖いよ」

 ハルトは答えた。

「でも、行きたい」

 由里子はしばらく息子を見つめていた。

 やがて、小さく息を吐いた。

「そう」

 それだけ言って、今度はレイを見る。

「十年前」

 レイの表情が変わった。

「私たちは、この子を地球に残して行った」

 ハルトは母を見る。

 由里子が十年前のことを自分から話すのは珍しかった。

「帰れないかもしれないって、何度も思った」

 由里子は静かに続けた。

「それでも帰ってきた」

 そして、ハルトへ視線を戻す。

「この子が待ってたから」

 誰も何も言わなかった。

 由里子は少しだけ笑った。

「だから、今度は逆ね」

「逆?」

 ハルトが聞く。

「今度は私が待つ番」

 レイが何か言おうとした。

 けれど由里子は、その前に言った。

「止めないわ」

 レイを見る。

 それからハルトを見る。

「ただし、一つだけ約束して」

「何?」

 由里子は静かに言った。

「二人とも、帰ってきて」

 ハルトは頷いた。

「うん」

 レイも、ゆっくり頷く。

「ああ」

 由里子は脇田を見る。

「あなたもよ」

「俺も?」

「当たり前でしょう」

 脇田は困ったように笑った。

「……分かりました」

「返事だけは昔からいいのよね」

「そこは変わってません」

 ほんの少しだけ、部屋の空気が緩んだ。

 レイはゆっくり立ち上がる。

 そして十年前と同じように言った。

「準備しろ」

「友だちを迎えに行く」

 

つづく

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