19
その頃、リプリーとディックは、禁猟区の森をスバルで走っていた。
リプリーは出し抜けにデカイくしゃみをした。
まるで鼻づまりのカバみたいな、超特大のくしゃみだった。
ディックはステアリングを切りそこね、スバルを路肩に突っ込んだ。
「危ねえよ、刑事さん」
「すまん。急に鼻がムズムズしてきて」
「風邪かい」
「何だかわからん。ここから遠いのか」
「ここから歩いたほうがいい。これから先は、こいつじゃ無理だ」
ディックが言った。道は舗装されていなかった。
凹みや亀裂が無数にある。
この車に苦労させるのはもう限界だった。
彼らは車を降り、枯れたススキを押し分けて、森の中を進んだ。
二人とも無言だった。
しばらく藪が続いた後、花歯岩の土手が見えた。
土手の向こうには、密林が立ちふさがっていた。
「いないじゃないか」
「もう少し奥の方なんだ。でも飛び回っていれば、ここからでも見えるはずだよ」
嘘を言っているようには思えなかった。
それにフレドリックの遺体発見現場から、そう離れていなかった。
近くに滝の音が聞こえた。
風が肌に心地よかった。
何でこんな素敵な場所に、大バエが生息しなきゃならないんだ。
リプリーはディックに訊いた。
「お前たちは、どのルートを歩いたんだ」
反対側だ、とディックは目の前の密林を指した。
「反対側?」
「監視員の目を逃れるには、森の反対側を迂回する必要かあったんだ」
分かった、とリプリーは言った。
「反対側に行ってみようじゃないか」
ディックの顔が硬直した。
「よしたほうがいい。あんたは何も分かっちゃいないんだよ、お巡りさん」
ディックは明らかに怯えていた。
彼の黄色いダウンジャケットは、藪を歩いたために、無数の種子が貼りついていた。
「逃げ場がなくなるんだよ。巣まで行くのに崖を下りなきゃならない。その途中に奴らの巣かあるんだ。つまり、降りてゆく途中で、
ケツの方から奴らに襲われちまう。俺たちは崖下から巣穴へたどり着いた。いつでも引き返すことはできた。でもここから降りて、宙ぶらりんのまま大バエの襲撃を受けるなんて、俺は嫌だよ。あんたはあいつらが飛ぶのを見たことがないだろう。そりゃあ、すげえ
もんだった。羽音がバッサバッサ聞こえて、まるでゴジラのキングギドラみたいだった」
「キングギドラ?」
「首が三つくらいあるやつがいるだろ」
「お前、その年齢になって、まだそんなもの視ているのか」
「視ていないよ。たとえだよ、たとえ」
「なぜ滝の近くに巣があるのを知った?」
「いや、フレッドだけが知っていた。ここなら猟がしやすかったんだと思う。銃声が滝の音に紛れるだろう。監視員の耳をごまかしや
すいんだ。崖をよじ登る者はいないと、たかをくくって巡回に来ないのも、フレッドは知っていたみたいだ」
「それで?」
「あのでかいハエたちは、この崖の途中に穴を掘って住んでいる。俺たちはまさか、あの化け物がハエだとは、知らなかった。熊のよ
うな生き物だとは、聞いていたんだが…。近づいていって、やつらが飛んだ時、俺は信じられない気持ちで、それを眺めていた。フレディには気の毒だが、俺はあの男がハエたちに襲われるのを、ただ見守っているだけだった。何だか、別の世界に迷い込んだみたいだった」
「ゴジラの世界か?」
「からかわないでくれ」
「元々は熊を仕留めるつもりだったんだな。熊を仕留めて、どうするつもりだったんだ。肉屋に仕入れを頼まれたのか?」
ディックは言葉に詰まった。
「行こう、日が暮れる」
リプリーは言った。
ディックはリプリーの前を歩き出した。
ダウンジャケットの種子が、背中にまとわりついてきた。
リプリーの背広も同然だった。
「おい、ここを下りるんじゃないのか」
リプリーはディックに言った。
「無理だって言っただろ。滝だよ、滝。岩場づたいに下りた方がいいよ」
ディックは言った。
少し歩くと、滝があった。
川幅が五メートルしかなかった。
二人は崖の上から滝壺を覗き込んだ。
何も見えやしない。
落差は三十メートルくらいだった。
「ここから下りたほうがいい」
崖の傾斜が比較的ゆるやかな場所を選んで、二人は下りることにした。
当然、登山靴など履いていない。
リプリーは革靴だった。
滝のしぶきで濡れた岩のこう配を下っていくのは、少し辛かった。
とにかく滑るのだ。
ディックはジョギングシューズだから、まだマシだろう。
崖下まで、あと二十メートルの高さを残していたが、リプリーはディックを呼んだ。
「ちょっと待て」
「何だい」
「ほこらがある」
崖面に大きなほこらがあった。
ほこらは直径ニメートル位で、奥行きがかなりあった。
地下水に通じているのかもしれない。
根気よく覗いてみたが、奥の方まで何も見えなかった。
ハエなどいやしない。
「何もいない」
「これはただのほこらだよ。巣穴はこんなにでかくないんだ」
ディックもほこらを覗きこんだ。
やはり何もいなかった。
リプリーはあきらめて、岩場を下りようとした。
その時、悲鳴が聞こえた。
ディックの体が、ほこらへ引きずりこまれようとしている。
ディックの背中に、毛むくじゃらの手が見えた。
大バエだ。
大バエがやはりひそんでいたんだ。
リプリーは、脇のホルスターから拳銃を抜いた。
ほこらにはディックの体しか見えない。
明らかに化け物がいるのだが、ハエは姿を見せなかった。
蟻地獄みたいな光景だった。
狙撃は無理だ。
リプリーは、ディックの足をつかんだ。
足を引っ張ると、化け物の頭部がわずかに見えた。
ディックの足は痙攣していた。
物凄い力がディックを引っ張り込もうとしていた。
リプリーも何とか岩場に踏ん張った。
しかし無駄なことだった。
ディックの体はほこらの中に引き込まれていく。
これではリプリーもろとも大バエの餌食になってしまう。
リプリーはディックの足を手放した。ディックの体はたちまちほこらの奥へ引きずられていった。
「ディック!」
リプリーは呼んだ。返事はなかった。
人には運命というものがある、とリプリー警部補は常に意識している。
彼はこの時、つくづくそれを実感した。
リプリーはほこらを覗き込んだ。
もう躊躇している場合ではなかった。
ディックが死んでしまうかもしれない。
「ディック!」
リプリーはもう一度大声で叫んだ。
ほこらの奥から、嫌な音が聞こえきた。
人肉をついばむ音だ。
人のうめき声が聞こえた。
リプリーはディックを呼んだ。
ディックは、ほこらの真ん中辺りの突き出た岩に、引っかかっていた。
どこかに頭を打ちつけたらしかった。
頭から出血し、虚ろな眼差しで、こちらを見上げていた。
ほこらの外から、ディックが闇の中を手探っている様子を見た時、助かるかもしれない、とリプリーは思った。
リプリーはディックの名前を呼び続けた。
反応はあったが、とうてい助かりそうもなかった。
既に下半身が無かったのだ。
それでもリプリーは助ける気だった。
「今、助けてやる」
リプリーは怒鳴った。無駄だった。
ディックは穴の奥に呑みこまれていった。
大バエは下半身を平らげ、今度はディックの上半身を取りかかるつもりらしい。
ディックの姿がタバコの吸い殻みたいに小さく見え、やがて見えなくなった。
ああ、なんてこった。
ディック・シモンズが死んだなんて。
リプリーは荘然としていた。
胃から苦い液が上ってきた。
彼はいそいで岩場を駆け下りた。
滝壺の近くに潜み、ほこらの様子をうかがった。
リプリーはディックと関わった、短い経緯を考えないようにした。
彼は罪の意識を感じることを避けたかった。
そんな時は、何か遠くの物を見ればいい。
考える対象を、そらす必要がある。
少なくとも、今は何一つ冷静考えられなかった。
冷静になるんだ。
リプリーは滝壺から離れた。
とりあえず崖を下りなければならなかった。
山なみは一人の男の死と関わりなく、静かな息づかいを続けていた。
この近くに、ディックが言っていた巣穴がまだ無数にあるはずだった。
リプリーは恐怖を感じた。
めったにないことだった。
山中の全ての巣穴が、自分を監視しているように感じた。
こんな惨劇に出くわした後とあっては、それは無理もないことだった。
リプリーは拳銃のマガジンを確かめた。
ついでに予備のカートリッジも…。
全部で二十四発しかない。
唇も腕も、頼りなく震えていた。
それでもリプリーは草むらから立ち上がった。
お前は大丈夫だ、リプリー。
彼は自分を励ました。
少なくとも、俺はオットーほどヤワじゃない。
自分の目的を思い出せ。
ディックの死を一つの点と捉え、次に何を成すべきか、考えるのだ。
彼は足を踏み出した。足がひどく重かった。
つづく
最後までお読み頂きありがとうございます。この作品はランキングに参加しています。よろしければクリックをお願いします。
Follow @hayarin225240