第27話 M地区
パルチノン食品工業。
かつてウィンドベルに進出し、その後、撤退した企業である。
前市長ハーバーの誘致によって山間部に工場を建設したものの、三年後、工場廃液から有害物質が検出された。
当時のロバート市長は責任を問われ、辞任に追い込まれた。
パルチノンもウィンドベルから撤退した。
そして現在、その拠点はチェインバーグへ移っている。
チェインバーグに建てられた「パルチノン食品第五セクション」。
敷地面積は一万坪。
大企業の工場にしては、どこかこぢんまりとしていた。
建物も簡素なプレハブ造りで、壁に掲げられた赤いシンボルマークがなければ、どこにでもある下請け工場にしか見えない。
工場は、リンダたちのアパートから五キロほど離れた造成地にあった。
この一帯では地区をアルファベットで区分しており、ここは「M地区」と呼ばれていた。
周囲では今も工事が続いている。
ブルドーザーが地面を削り、巻き上げられた砂埃が冬の乾いた空気を漂っていた。
工場から少し離れた空き地には、社員たちの車が並んでいる。
正式な駐車場なのか、勝手に停めているだけなのかは分からない。
その時、造成地の端から黒塗りのセダンが現れた。
かつてはきれいに磨かれていたのだろうが、今では車体全体が白っぽい埃に覆われている。
車は工場の周囲を一周すると、建物の前で止まった。
運転手が降り、工場の中へ駆け込んでいく。
しばらくして大きなシャッターが開いた。
運転手が戻ってくると、セダンはそのままプレハブの中へ吸い込まれていった。
「車ばっかり使ってないで、歩けばいいのにな」
リプリーがぼやいた。
「まったくだ」
オットーが答えた。
「あいつらは昔からそうだ。ドアひとつ自分で開けようとしない。覚えているのは命令文と否定文だけだ。トイレじゃ自分の尻さえ拭けないんじゃないか?」
「声がでかいぞ、リプリー」
「こんな距離で聞こえるわけねえよ」
二人は工場近くに放置された、大型土砂運搬車の荷台に身を隠していた。
退院したばかりのオットーは赤いブルゾンに紺色のスラックス。
リプリーは黒い革ジャンに、やけにタイトなブルージーンズ。
どちらも潜入調査をする人間には見えない。
「しかし、派手な格好で探偵の真似事をする馬鹿なんて、俺は初めて見たぞ」
リプリーがオットーのブルゾンを見て言った。
「私だってそう思ってるさ。だが事情があるんだ」
「何だよ」
「病院を出る時、師長がこれをくれたんだ。身体を冷やすなと言ってな。いらないと断ったんだが……」
オットーは自分のブルゾンを見下ろした。
胸元には、小さなスヌーピーが刺繍されている。
「着てみると、これが意外と嬉しくてな」
リプリーは刺繍を見た。
それから、わずかににやけているオットーの顔を見た。
「クソ、複雑すぎるな」
オットーは無視して工場へ視線を戻した。
「それにしても……想像以上に大きくなってる」
「何がだ?」
「ハエさ」
オットーの表情から笑みが消えた。
「廃棄物の処理をいい加減にすると、時として予想もつかないことが起きる。私が最初に見た時は、せいぜい兎くらいの大きさだった」
「兎でも充分でかいよ」
リプリーは顔をしかめた。
「それで、そのキンバエどもはどうなった?」
「焼き殺された」
「誰に?」
「パルチノンの連中だ。火炎放射器を持ち出して、巣ごと焼いた」
リプリーは黙った。
オットーは続けた。
「私は何も言わなかった。いや、言えなかったという方が正しいかもしれん。当時、私が依頼されていたのは廃棄バルブの調整だけだったからな」
「報酬も必要だった?」
「ああ」
オットーは素直に認めた。
「金が必要だった」
「具体的には、どんな仕事だったんだ」
「本当にバルブの調整だけだ。ただ……地下へ廃棄物を流し込んでいるのは見た」
リプリーが振り向いた。
「それを知ってて、黙ってたのか」
「そうだ」
オットーは工場を見つめたまま答えた。
「深く関わらなかった。関わりたくなかったんだ」
しばらくして、彼は続けた。
「だが、ある男から協力を求められたことがある」
「ウィンドベルの環境調査官、ウェインだろ?」
「ああ。あの間抜けなウェインさ」
「弟は死んだ」
オットーの顔から表情が消えた。
「そうだ。死んだ」
風が吹いた。
造成地の砂埃が舞い上がり、工場の姿を一瞬だけ霞ませた。
「ウェインはパルチノンと取引しようとした。私から手に入れた資料を使って、金を取ろうとしたんだ」
「そして、その代償に命を失った」
「ああ」
リプリーはポケットからタバコを取り出した。
「可哀想な奴だったよ。深夜に線路の上を歩く理由なんて、あいつにはなかった」
ライターの火が灯った。
「俺は今でも、パルチノンの仕業だと思ってる。ただ、証拠がなかった」
オットーは目を閉じた。
しばらく何も言わなかった。
やがて目を開き、自嘲するように笑った。
リプリーは煙を吐きながら尋ねた。
「ウェインが死んだ時、なぜ警察にパルチノンのことを話さなかった?」
オットーは答えなかった。
「知ってたんだろ。少なくとも、俺たちよりは」
「……ウェインは死んだ」
オットーは静かに言った。
「だが、私には妻がいた」
リプリーは黙って聞いていた。
「私が殺されるのは構わなかった。だが、妻を失うのは嫌だった」
オットーは工場から目をそらした。
「だから黙った」
その声には、言い訳らしい響きはなかった。
「それが結局……妻も失う羽目になってしまったがね」
目尻から、一筋だけ涙が流れた。
リプリーは横目でそれを見た。
何も言わず、タバコを一度吸った。
そして、ぽつりと言った。
「あんた、最近涙もろいな」
オットーは鼻をすすった。
「ほっとけ、クソ刑事」
