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パルチノングループの取締役社長は、二階事務所に来ていた。そこは第五セクション会議室だった。

社長は金ラメの入ったスーツを着ていて、小太りの神経質そうな顔をしている。

屈強な側近の男が一人いた。金ラメのボディガードに違いなかった。

ここに一人の作業衣の男が呼び出された。

男はソファーセットに腰かけ、供されたブランデーに手をつけるべきか、悩んでいる様子だった。

「相手は誰なんだ、トレース」

作業衣の男に向かって、金ラメは訊いた。

トレーシーはためらっていた。

「ここへ来てから、主任から話を聞いた。女子従業員と随分親しくしていたらしいじゃないか」

金ラメは含み笑い、腕を組んだ。

「何という女だ」

「リンダ・フックス」

「独身か?」

「いや、結婚しているそうです。子供もいるらしいんですが」

「そしてその女は、先週辞表を提出して、ウインドベルへ帰っていった。これをどう思うかね、トレース」

「おっしゃってる意味が分かりません」

「君がじゃない。我々がどう思うか、という意味だ」

「私は何もしていません。彼女はウソをついています。私はただ肩をつかんで、彼女を呼び止めただけです、社長」

「君はそう言っている。しかし、彼女はそう言っていない。身体を触られたそうなんだ。もちろんキミにだ、トレーシー」

「それはウソです」

「話を聞きたまえ。我々はそれとは別のことを君に聞きたがっているんだ」

トレーシーはうんざりした表情で、側近が差し出したブランデーのグラスを受け取った。一息に飲み干すと、トレーシーは側近からボトルを引ったくった。

「いいとも、存分飲みたまえ」

金ラメは静かに笑った。

トレーシーの目が次第に据わってきた。

「今回のことは、実はたいしたことではないと、我々は思っている、トレース」

「だったら、なぜ私をここへ呼んだのです」

「今回のことは、と言っただろう。君には重大な仕事を頼んでおいたはずだ」

トレーシーはボトルから目を離そうと、必死に努力していた。

目の前の人物の言葉が、次第に脅迫めいたものに聞こえ出した。

重度のアルコール依存症の典型的な症状だった。

彼はどうしても酒を必要とせずにはいられない人間だった。

「君は、表向きは生産過程の管理者だ。しかし、その手の任務なら、君の部下が代行してくれているはずだ。君が本来の仕事を消化しさえすれば、出社しなくてもいいし、今回のような下らん問題も大目に見るつもりだった」

「私なりに努力しているつもりです」

「成果はどうかね。あんまりはかどらない様子じゃないか」

「今度は何をやらせるつもりなんです」

トレーシーは金ラメを急かした。

側近の男がボトルを取り上げようとしたが、金ラメはそれを押し止めた。

「まず、この男を覚えてくれ」

写真には、初老の男が写っていた。

「ウインドベル自然科学研究所所長、フレデリック・オットー」

「この男がどうしたんです」

「この男は以前、我が社の工場廃液を摘発しようとした。まったくのデタラメだったがね。君もその話は聞いただろう」

「聞きました」

「まったくのデタラメなんだ。それは分かるな、トレース」

トレーシーの顔に、嘲りが浮かんだ。金ラメはそれを見逃さなかった。彼は側近を睨んだ。

トレーシーの横顔に強烈な右フックが打ち込まれた。

彼の手から、ボトルが転げ落ち、テーブルの下に転げていった。

「トレース、お前の今日の態度を見て、私は間違いに気づいたよ。お前を甘やかし過ぎていた。チェインバーグ食品加工セクションは、本来ならお前のような人間にいてもらいたくないんだよ。我が社は単なる企業じゃない、今ではチェインバーグの全てを支えているんだ。お前のような前科者に、情けをかけ
た俺の親父の気がしれない」


「確かに俺は前社長に拾ってもらった人間だ。だから、俺も会社に尽くす気でいた。そして懸命に働いたんだ」

トレーシーは唇を震わせていた。しかし、金ラメの目は、野良犬を眺めるそれと、大して変わりないように思えた。

「あの日、あんたが俺の前に現れてから、またおかしくなっちまった。ハエの始末をしろと言う。どこかの調査官をブン殴って、列車に放り込めと言う。俺はあんたの親父さんに相談しようとしたが、あんたはそれを拒んだ。会わせてくれなかった。これも親父さんの命令だと、あんたは言った。だがな、俺は
知っている、親父さんはそんなことは言わなかった」

「なぜそんなことが分かる?」

「目だよ。親父さんは心の痛みが分かる目をしていた。あんたにはそれがない。あんたの親父さんが亡くなった時、俺はどうしていいのか、分からなかった。このままあんたの下で働くのか。それとも無理を承知で他の土地で仕事を探すか。今ならその答が出せる。俺はここにいたら駄目なんだ!」

気押された金ラメは、側近にため息を漏らし、トレーシーを嘲笑した。

「俺もお前がそう思っているだろうと、心配していたんだよ、トレース。よく本心を打ち明けてくれたね」

声も態度も、見まごうことなく同情を演じていた。その視線はどこまでも冷たかった。

トレーシーは彼に懇願した。

「それならば、私はなぜあんな仕事をしなければならないんだ。俺はただ生活するための
金か稼げればいいんだ」

とうとう金ラメ自身が、トレーシーを殴った。側近の男はトレーシーを羽交い絞めにして、抵抗できないようにした。

金ラメは、トレーシーの前歯で、手の甲を切っていた。ハンカチで傷口を押さえながら、次々とわめいた。

「あのハエどもを抹殺するんだ。今度はバーナーを使え。山ごと焼きつくせ。そして、オ
ットーを始末しろ、いいかトレーシー」

金ラメは背広から拳銃を抜き出した。銃口でトレーシーの前歯をつつき、横っ面を殴り飛ばした。

トレーシーの口から、鮮血が流れ落ちた。前歯が折れたのだ。金ラメはそれに満足すると、静かに言葉をつないだ。

「口外すればお前は死ぬことになる。逃げ出そうとしても、お前は環境調査官殺人の首謀者になるようになっているんだ、トレース」

「俺はやっていない」

「チェインバーグ署を買収したんだよ」

「ちくしょう」

トレーシーは床に倒れたまま、起き上がれなかった。彼はこの時、何かを思い出した。

リンダ・フックスの顔だった。

リンダ…。素敵な旦那さんがいるんだってな、それをもう少し早く言ってくれれば、毎日アパートに押しかけたりはしなかった。

あんたにはふられてしまったが、俺はお前の身体なんか触っちゃいないそ。

でも良かったよ、パルチノンを辞めてくれて。

ここにいたら危険だ。

トレーシーは微笑みながら、独り言を言った。

幻覚症状だった。

「女の名前を呼んでますぜ、社長。お前はもう駄目になっちまったな、トレース」

ボデイガードが言った。社長は愉快そうに笑いだした。

「もう一仕事やってもらうがね」

トレースは床に転がったまま、次第に意識が遠のいていった。

社長とボデイガードの話し声が聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなった。

 

つづく

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