28
パルチノングループの取締役社長は、二階事務所に来ていた。そこは第五セクション会議室だった。
社長は金ラメの入ったスーツを着ていて、小太りの神経質そうな顔をしている。
屈強な側近の男が一人いた。金ラメのボディガードに違いなかった。
ここに一人の作業衣の男が呼び出された。
男はソファーセットに腰かけ、供されたブランデーに手をつけるべきか、悩んでいる様子だった。
「相手は誰なんだ、トレース」
作業衣の男に向かって、金ラメは訊いた。
トレーシーはためらっていた。
「ここへ来てから、主任から話を聞いた。女子従業員と随分親しくしていたらしいじゃないか」
金ラメは含み笑い、腕を組んだ。
「何という女だ」
「リンダ・フックス」
「独身か?」
「いや、結婚しているそうです。子供もいるらしいんですが」
「そしてその女は、先週辞表を提出して、ウインドベルへ帰っていった。これをどう思うかね、トレース」
「おっしゃってる意味が分かりません」
「君がじゃない。我々がどう思うか、という意味だ」
「私は何もしていません。彼女はウソをついています。私はただ肩をつかんで、彼女を呼び止めただけです、社長」
「君はそう言っている。しかし、彼女はそう言っていない。身体を触られたそうなんだ。もちろんキミにだ、トレーシー」
「それはウソです」
「話を聞きたまえ。我々はそれとは別のことを君に聞きたがっているんだ」
トレーシーはうんざりした表情で、側近が差し出したブランデーのグラスを受け取った。一息に飲み干すと、トレーシーは側近からボトルを引ったくった。
「いいとも、存分飲みたまえ」
金ラメは静かに笑った。
トレーシーの目が次第に据わってきた。
「今回のことは、実はたいしたことではないと、我々は思っている、トレース」
「だったら、なぜ私をここへ呼んだのです」
「今回のことは、と言っただろう。君には重大な仕事を頼んでおいたはずだ」
トレーシーはボトルから目を離そうと、必死に努力していた。
目の前の人物の言葉が、次第に脅迫めいたものに聞こえ出した。
重度のアルコール依存症の典型的な症状だった。
彼はどうしても酒を必要とせずにはいられない人間だった。
「君は、表向きは生産過程の管理者だ。しかし、その手の任務なら、君の部下が代行してくれているはずだ。君が本来の仕事を消化しさえすれば、出社しなくてもいいし、今回のような下らん問題も大目に見るつもりだった」
「私なりに努力しているつもりです」
「成果はどうかね。あんまりはかどらない様子じゃないか」
「今度は何をやらせるつもりなんです」
トレーシーは金ラメを急かした。
側近の男がボトルを取り上げようとしたが、金ラメはそれを押し止めた。
「まず、この男を覚えてくれ」
写真には、初老の男が写っていた。
「ウインドベル自然科学研究所所長、フレデリック・オットー」
「この男がどうしたんです」
「この男は以前、我が社の工場廃液を摘発しようとした。まったくのデタラメだったがね。君もその話は聞いただろう」
「聞きました」
「まったくのデタラメなんだ。それは分かるな、トレース」
トレーシーの顔に、嘲りが浮かんだ。金ラメはそれを見逃さなかった。彼は側近を睨んだ。
トレーシーの横顔に強烈な右フックが打ち込まれた。
彼の手から、ボトルが転げ落ち、テーブルの下に転げていった。
「トレース、お前の今日の態度を見て、私は間違いに気づいたよ。お前を甘やかし過ぎていた。チェインバーグ食品加工セクションは、本来ならお前のような人間にいてもらいたくないんだよ。我が社は単なる企業じゃない、今ではチェインバーグの全てを支えているんだ。お前のような前科者に、情けをかけ
た俺の親父の気がしれない」
「確かに俺は前社長に拾ってもらった人間だ。だから、俺も会社に尽くす気でいた。そして懸命に働いたんだ」
トレーシーは唇を震わせていた。しかし、金ラメの目は、野良犬を眺めるそれと、大して変わりないように思えた。
「あの日、あんたが俺の前に現れてから、またおかしくなっちまった。ハエの始末をしろと言う。どこかの調査官をブン殴って、列車に放り込めと言う。俺はあんたの親父さんに相談しようとしたが、あんたはそれを拒んだ。会わせてくれなかった。これも親父さんの命令だと、あんたは言った。だがな、俺は
知っている、親父さんはそんなことは言わなかった」
「なぜそんなことが分かる?」
「目だよ。親父さんは心の痛みが分かる目をしていた。あんたにはそれがない。あんたの親父さんが亡くなった時、俺はどうしていいのか、分からなかった。このままあんたの下で働くのか。それとも無理を承知で他の土地で仕事を探すか。今ならその答が出せる。俺はここにいたら駄目なんだ!」
気押された金ラメは、側近にため息を漏らし、トレーシーを嘲笑した。
「俺もお前がそう思っているだろうと、心配していたんだよ、トレース。よく本心を打ち明けてくれたね」
声も態度も、見まごうことなく同情を演じていた。その視線はどこまでも冷たかった。
トレーシーは彼に懇願した。
「それならば、私はなぜあんな仕事をしなければならないんだ。俺はただ生活するための
金か稼げればいいんだ」
とうとう金ラメ自身が、トレーシーを殴った。側近の男はトレーシーを羽交い絞めにして、抵抗できないようにした。
金ラメは、トレーシーの前歯で、手の甲を切っていた。ハンカチで傷口を押さえながら、次々とわめいた。
「あのハエどもを抹殺するんだ。今度はバーナーを使え。山ごと焼きつくせ。そして、オ
ットーを始末しろ、いいかトレーシー」
金ラメは背広から拳銃を抜き出した。銃口でトレーシーの前歯をつつき、横っ面を殴り飛ばした。
トレーシーの口から、鮮血が流れ落ちた。前歯が折れたのだ。金ラメはそれに満足すると、静かに言葉をつないだ。
「口外すればお前は死ぬことになる。逃げ出そうとしても、お前は環境調査官殺人の首謀者になるようになっているんだ、トレース」
「俺はやっていない」
「チェインバーグ署を買収したんだよ」
「ちくしょう」
トレーシーは床に倒れたまま、起き上がれなかった。彼はこの時、何かを思い出した。
リンダ・フックスの顔だった。
リンダ…。素敵な旦那さんがいるんだってな、それをもう少し早く言ってくれれば、毎日アパートに押しかけたりはしなかった。
あんたにはふられてしまったが、俺はお前の身体なんか触っちゃいないそ。
でも良かったよ、パルチノンを辞めてくれて。
ここにいたら危険だ。
トレーシーは微笑みながら、独り言を言った。
幻覚症状だった。
「女の名前を呼んでますぜ、社長。お前はもう駄目になっちまったな、トレース」
ボデイガードが言った。社長は愉快そうに笑いだした。
「もう一仕事やってもらうがね」
トレースは床に転がったまま、次第に意識が遠のいていった。
社長とボデイガードの話し声が聞こえていたが、やがてそれも聞こえなくなった。
つづく
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