19
夜明け前の薄暗い空の下、大久保道場の稽古場は静寂に包まれていた。
道場の中では、師範である武蔵春信が一本の木刀を握りしめ、目の前に立つ弟子、大久保真丸に鋭い視線を送っていた。
「参れ、真丸!」
武蔵は静かに、しかし確固たる声で命じた。
真丸は気合いと共に前へ一歩踏み出し、渾身の力で木刀を振り下ろした。
その瞬間、道場内に木刀の鋭い音が響き渡り、他の門弟たちは息を飲んだ。
真丸の動きは見事だったが、武蔵は寸分の狂いもなく防御し、逆に力強く押し返した。
「うぉぉ!」
真丸は再び声を上げ、執念で攻撃を続けた。
しかし、武蔵の防御は鉄壁であり、真丸の攻撃はことごとく封じられた。
やがて、真丸の力が尽き、彼の身体は力なくその場に崩れ落ちた。
「真丸…」
見守っていた門弟の一人が、無意識に呟いた。
武蔵は無言で彼に近づき、冷ややかな目で見下ろした。
「手当てしてやれ」
武蔵は短く命じると、真丸を抱え起こそうとする門弟たちを促した。
「承知しました。真丸、具合はどうじゃ?」
門弟の一人が真丸に問いかけた。
真丸は肩で息をしながらも、薄く笑みを浮かべ、気丈に頷いた。
「気を確かに持て!」
もう一人の門弟が彼を励ました。
門弟たちが真丸の手当てを行う間、武蔵は稽古場から離れ、無言で自らの汗を拭い、しばしの休息を取ろうとした。
その時、不意に矢が飛んできて、稽古場の柱に刺さった。
武蔵は瞬時に反応し、矢が放たれた方角を鋭く見据えた。
武蔵は素早く身構えたが、それ以上の攻撃はなかった。
慎重に近づいて矢を抜くと、そこには巻き付けられた紙切れがあった。
矢文には短く明瞭な言葉が記されていた。
「大黒屋の娘、静香を預かった。命を助けたくば、武蔵春信一人にて、辰の刻、白川、赤岩ん淵へ参れ」
「辰の刻…だと」
武蔵は呟いた。
今からおよそ二時間後だ。
突然の事態に、武蔵の表情が険しくなる。
「静香殿!」
彼の声には怒りと心配が混ざっていた。
風が稽古場を吹き抜け、木々のざわめきが聞こえた。
武蔵は決意に満ちた表情で外を見つめた。
時間は刻一刻と過ぎていく。
自分のせいで、静香が危険に晒されている。一刻も早く彼女を救出しなければならない。
道場内は再び静寂に包まれたが、風が吹き抜ける音だけが不吉に耳を打った。
武蔵は決意を固め、居住まいを正した。
その姿は、静かながらも燃え盛る炎のようであった。
つづく
