3.父の沈黙と、一本の電話
「……ハルト」
背後から声がした。
ハルトは飛び上がるほど驚いて振り向いた。
牛舎の入口に、レイが立っていた。
いつからそこにいたのか分からない。
作業用のランタンだけを手にしている。
「起きてたの?」
ハルトは言ったが、返事はなかった。
レイは無線機を見ていた。
まっすぐに。
まるで、知っているものを見るように。
そのとき。
……カチ。
……トン、トン。
無線が鳴った瞬間、レイの指がわずかに動いた。
机の上に置かれた手が、ゆっくりと持ち上がる。
そして――
……トン。
軽く、一度だけ叩いた。
レイ自身が、一番驚いた顔をした。
返すつもりはなかった。
そうしようと思ったわけでもない。
ただ、
“その間に何もしないのが不自然だった”。
無線が、すぐに応じた。
……トン、トン。
……トン。
レイの喉が鳴った。
彼は無線機を見つめたまま、低くつぶやいた。
「……まだ、覚えているのか」
「父さん……?」
レイは答えなかった。
ただ、お守りを握りしめていた。
強く。
白くなるほど。
ハルトは初めて見る表情だった。
怒っているわけでも、驚いているわけでもない。
――怖がっているのでもない。
それは、もっと静かな感情だった。
ずっと昔に置いてきた何かに、
突然、名前を呼ばれた人の顔だった。
レイはゆっくり息を吐いた。
「……家に戻れ、ハルト」
「でも――」
「いいから」
強い口調ではなかった。
けれど、逆らえなかった。
ハルトは牛舎を出た。
振り返ると、レイはもうこちらを見ていなかった。
無線機の前に座り込み、じっと動かない。
家に戻っても、眠れなかった。
窓から牛舎が見える。
明かりは、ずっと点いたままだった。
ハルトは眠れなかった。
布団に入っても、耳の奥であの間が繰り返される。
……トン。
……トン、トン。
意味は分からない。
けれど、忘れてはいけない気がした。
枕元の端末を手に取る。
メモの画面を開き、指でリズムを打つ。
思い出せる限り、そのまま記録した。
自分でも、なぜそんなことをしているのか分からない。
ただ――
消えてしまうのが怖かった。
翌朝。
朝食の席で、ハルトはレイに見せようとして、やめた。
代わりに、学校の連絡用の共有端末を開く。
クラスのグループに、何気なく送った。
《変な無線が入った。これ、何だと思う?》
短い打鍵記録の動画が添えられていた。
そして、夜明け前。
電話のベルで、ハルトは跳ね起きた。
こんな時間に電話が鳴ることはない。
レイが出るはずだと思ったが、
階下から足音は聞こえない。
ハルトは受話器を取った。
「……もしもし」
少しの沈黙。
それから、男の声がした。
「レイか?」
「え……ち、違います」
「……誰だ?」
「ハルトです。息子です」
受話器の向こうで、息をのむ気配があった。
しばらくして、低い声が言った。
「……そうか。あいつ、やっぱり電話に出ないか」
「父さんに用事ですか」
「ああ。いや――」
言いよどむ。
そして、決心したように続けた。
「君、昨夜なにか聞いたか?」
ハルトの喉が乾いた。
「……無線ですか」
沈黙が落ちた。
長い、重たい沈黙。
「やっぱりか」
声の調子が変わった。
疲れているのに、どこか嬉しそうだった。
「間違いないな……あいつだ」
「誰ですか?」
電話の向こうの男は、はっきり言った。
「脇田だ。父さんに伝えてくれ」
そこで、ちょうど背後に気配がした。
振り返ると、レイが立っていた。
夜のままの顔だった。
一睡もしていないのが分かる。
ハルトは受話器を差し出した。
「……父さん」
レイはゆっくり受け取った。
「……久しぶりだな」
短い沈黙。
それから、電話の向こうで大きな声がした。
「レイ。来たぞ」
レイは目を閉じた。
「あいつが呼んでる」
受話器を握る手に、力が入る。
「――アキュラからだ」
レイは何も答えなかった。
ただ、胸のお守りを強く握りしめていた。
朝日が、窓から差し込み始めていた。
つづく
