4.東京――書けない男
東京は雨だった。
高層ビルの窓を、細い雨粒がゆっくり流れていく。
昼間だというのに空は暗く、街の輪郭はぼやけていた。
デスクの上には原稿用紙が広がっている。
白いまま、ほとんど埋まっていない。
脇田はペンを持ったまま、十分以上動いていなかった。
「……また、そこか」
小さくつぶやく。
紙の上には、たった一行だけ書かれている。
――あのとき、少年は何も言わずに手を上げた。
そこで止まっている。
それ以上が、どうしても書けない。
脇田は椅子にもたれ、天井を見上げた。
部屋の壁には、本の表紙が額に入れて飾られている。
『アキュラ遭難記』――ベストセラーになった彼の代表作だった。
だが、本人は一度も読み返していない。
「嘘は書いてないんだけどな……」
苦笑した。
事実は書いた。
起きたことも書いた。
自分が見たことも書いた。
――けれど、一番大事な場面だけ書いていない。
あの洞窟の前。
吹き荒れる赤い風の中で、少年が最後に見せたハンドサイン。
あれを書いた瞬間、物語が本当に終わってしまう気がしていた。
机の隅に、小さな箱が置かれている。
中には古びた紙が入っていた。
子供の字。
震えた線で描かれた記号。
脇田はそれを指でなぞった。
「……またな、って意味だろ」
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。
無視した。
すぐに二度、三度と続く。
「宅配は頼んでないぞ……」
立ち上がり、ドアを開けた。
そこに立っていたのは、宅配業者ではなかった。
白髪の老人だった。
作業着姿で、雨に濡れている。
脇田は目を見開いた。
「……緒方さん?」
「入れてくれ。立ってると腰が死ぬ」
勝手に靴を脱ぎ、ずかずかと上がり込む。
昔と何も変わらない。
「連絡くらい――」
「する暇があるなら来ない」
緒方はそう言って、濡れた帽子を机に置いた。
そして部屋を見回し、鼻を鳴らした。
「売れっ子先生の部屋にしちゃ、散らかっとるな」
「締め切り前なんです」
「嘘つけ。書けてない顔だ」
図星だった。
緒方はポケットから端末を取り出した。
「これを見てくれ」
「何です?」
「観測局が拾った信号だ」
画面には、細かな波形が並んでいた。
「アキュラから?」
「ああ」
脇田の表情が変わった。
端末を受け取り、画面に顔を近づける。
一定の間隔で信号が現れ、そのたびに途切れている。
「何かの通信ですか」
「分からん。最初はただのノイズだと思われていた」
緒方が画面を切り替えた。
「ところが、牧場にいるハルトが妙なことに気づいた」
映像が始まった。
牛舎の前にハルトが立っている。
少年は空を見上げ、それから両手を動かした。
脇田が身を乗り出した。
「手話……」
「ああ」
ハルトの手が止まった。
数秒後、画面の隅に表示された受信波形が大きく振れた。
ハルトがもう一度手話をする。
今度は信号が止まる。
少年が手を下ろす。
しばらくして、再び信号が届いた。
脇田は黙って映像を見つめていた。
「何度やっても同じだったそうだ」
緒方が言った。
「ハルトが手を動かしている間、向こうは止まる。ハルトが止めると、向こうから信号が来る」
脇田は映像を巻き戻した。
もう一度見る。
ハルトが手話をする。
信号が止まる。
ハルトが待つ。
信号が返る。
「……交互だ」
「何?」
「こっちが話している間、向こうは待ってる」
脇田は立ち上がった。
「それで、こっちが止まったら返してくる」
「つまり?」
「通信じゃない」
脇田は画面を指差した。
「会話してるんだ」
緒方は黙った。
脇田は映像をさらに戻した。
ハルトが最初に見せた手話。
そして、その直後に返ってきた信号。
その間隔。
繰り返されるパターン。
脇田の顔から血の気が引いた。
「……これ」
「分かるのか?」
「忘れるわけないだろ」
脇田は机へ向かった。
小さな箱から、古びた紙を取り出す。
十年前、何度も見た記号。
洞窟の前で、少年が最後に残した言葉。
脇田は紙と端末を見比べた。
「同じだ」
「何が?」
「“また会う”」
緒方が息を止めた。
脇田はもう一度、端末を見た。
「レオだ」
その声は震えていた。
「レオが、生きてる」
しばらく、二人とも何も言わなかった。
窓の外では雨が降り続いている。
緒方が静かに言った。
「行くか?」
脇田は答えなかった。
机の上の原稿を見る。
――あのとき、少年は何も言わずに手を上げた。
十年間、その先を書けなかった一行だった。
脇田はペンを置いた。
そしてコートを掴む。
「どこへ行く」
緒方が訊いた。
脇田はドアを開けた。
「決まってる」
十年前、自分だけが地球へ帰った。
今度は、自分が行く番だった。
「レオを迎えに行く」
つづく
