15
深夜の大久保道場は、重苦しい空気に包まれていた。
闇討ちの危機感がまだ残る中、医者が大久保藤淳の診察を終え、静かに部屋を出ていった。
「どうぞお大事にされませ」と医者の言葉が響く。
武蔵春信は、大久保真丸に向き直り、疲れた表情で言った。
「真丸、今宵は史恵殿と…そなたらとともに過ごされるほうが良いかと…」
真丸は黙って頷いた。
〈ええ、武蔵先生…〉
その表情には、複雑な思いが滲んでいた。
稽古場には十名の門弟たちが待ち受けていた。
武蔵と真丸が姿を見せると、沈黙が訪れたが、すぐに門弟たちの焦りと怒りの声が響き始めた。
「大久保先生のご様子はいかがでございましょう?」
一人の門弟が不安げに尋ねる。
武蔵は冷静さを保とうと努めながら答えた。
「安心せい。先生のお命には何の問題もない」
しかし、その言葉は門弟たちの怒りを鎮めるには十分ではなかった。
「それは何よりでございますが、師範代はこの件をどうなさるおつもりですか?」
別の門弟が追及するように問いかけた。
武蔵は眉をひそめ「この件とは何のことだ?」と問い返す。
すると、門弟たちの間で怒りの声が高まっていった。
「殿のお名を騙り、病の先生を呼び出して、襲ったことでございます」
「このままでは済まされませぬ」
「不忠者は討つべし!」
怒号が飛び交う中、武蔵は必死に制止しようとした。
「ま、待て、待たぬか!」
彼の声は震えていた。
「今宵の闇討ちが、ご家老の差し金であると申す証拠は何処にもないぞ!」
しかし、大久保真丸までもが手真似と拙い口話で反論した。
「武蔵先生! 証拠はなくとも、合志が葛西に命じたのは明らかでございます」
武蔵は苦しい表情を浮かべながら、「知らぬと突っぱねることも可能だぞ」と弱々しく言った。
門弟たちの怒りは収まる気配がなかった。
「問答無用。さすれば斬り捨て御免でござる!」
武蔵は必死に説得を試みる。
「正気の沙汰か! 証拠もなしに藩の重役を討てば、謀反人となるのだぞ。剣の道を教えて下された先生に、謀反人の汚名を着せるつもりか」
しかし、普段従順な真丸も冷静さを失っていた。
「その先生が命を狙われたのです」
武蔵の言葉も空しく、門弟たちの声は更に高まっていく。
「師範代! どうか、立ち上がってください!」
武蔵は額に汗を浮かべながら、必死に場を収めようとした。
「まぁまぁ、落ち着け! 無用な騒ぎを起こせば、敵の思う壺じゃ!」
彼は深く息を吐き、諭すように言った。
「大久保先生の身を案じるなら、どうか静かに見守ってくれ」
最後に、武蔵は頭を下げ、懇願するように言った。
「今回の件はおぬしらに頭を下げるしかない。どうか、どうにか、我慢してくれ!」
その時、静かに見守っていた大久保史恵が冷たい声を発した。
「あなたは臆病者! 名ばかりの骨抜き侍じゃありませんか」
その言葉に、武蔵春信は驚いて史恵を見つめた。
「史恵殿…わしは」と言いかけたが、言葉を失ってしまった。
部屋には重苦しい沈黙が広がった。
武蔵の苦悩に満ちた表情が月明かりに照らし出されていた。
つづく
